2012年10月25日木曜日

その12「死に直面している」 ピリピ1章、Ⅱテモテ4章

今日のテーマは「死に直面している」です。その昔、家族はもっと大きく、近所付き合いも密で、医療も発達していなかったので、死はもっと身近なものでした。戦時中であればなおさらのこと。しかし核家族化が進んだ現在、私たちが死に直面する機会は極端に減りました。「バカの壁」を書いた養老孟司は、ある著書の中で(少々不謹慎ですが)こう書いています。「現代人は、まるで排泄物のように、『死』を生活の見えない領域に追いやってしまいました」。確かにその通りです。多くの人は病院でひっそり亡くなり、亡骸は火葬場で焼かれ、ごく近い親族を除いて、『死』は誰の目に触れることもなく処理されるようになりました。そして人々は、普通に生活していれば「死」について全く考えなくても済むようになってしまったのです。しかし私たちの人生において「死」について考えることはとても重要です。聖書にもこうあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ(伝道7:2)」。このシリーズの最後に「死」について考えましょう。 

死を現実のこととしてとらえていますか?プロゴルファーのポール・エージンガーが癌に気付いたのは1993年のPGAチャンピオンシップの優勝が決まった時でした。その時の様子をこう記しています。「レントゲン室で、氷みたいに冷たいテーブルの上に寝かされて、緊張のあまり震えていました。恐ろしかったのです。技師が機械を調整している間、私は本物の不安が自分にのしかかってくるのを感じました。癌で死ぬんだ。でももう一つの現実に、もっと強く心を打たれました。実のところ私はどのみち死ぬんだ。癌であれその他の理由であれ。問題はそれがいつになるかということにすぎないんだ」。私の母も癌に侵されていましたが、ある時ふとこう言いました。「心臓の鼓動が聞こえる。トントントン。人間は生まれた時から、いずれ死ぬことが決まっている。この鼓動もやがて止まる。そう考えると、この鼓動は死へのカウントダウンではないか」。この現実は、ある時突然私たちに襲ってきます。死の問題は、全ての人に共通のテーマです。それなのに私たちは、何かが起こるまで、なかなかこの問題に真剣に向き合おうとしないのです。 

死への備えができていますか?先に紹介したプロゴルファーは化学療法を受けて回復し、その後も活躍を続けました。しかし彼の人生観は以前とは180度異なっていました。「(今回の経験を通して)真の満足を得るための唯一の方法が分かりました。それはイエス・キリストとの個人的な関係を持つことです。(この方に出会い)私はとてつもなく大きな答えを手に入れました。それは何をする時にでも、神様が私をご自身の子どもとして助けて下さるという約束です。どのようなことが起ころうとも、例え癌が再発しようとも…。神様はこの世を最善の場所にしようとは考えておられません。この世は、最善の場所へ行くために準備する場所なのです」。また私の母は、最後まで信仰を保ち、このキリストの素晴らしさを証ししながら、御国に旅立っていきました。死への備えができている人にとって、肉体の死は一つの通過点に過ぎません。その先には主イエスキリストが自ら備えて下さった、永遠の場所(住まい)が約束されているのです(ヨハネ14:3)。そこには主を賛美する仲間がいます。そして、死も、苦しみも、悲しみもないのです(黙示21:4)。 

あなたは「義の栄冠」を受けるような生き方をしていますか?パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が用意されているだけです(Ⅱテモテ4:7-8)」と告白しました。そこに一切の後悔はなく、自分の人生に対する誇りが溢れています。私たちは人生の最後にどのような言葉を残すでしょうか?そこに「やりきった感」はあるでしょうか?イエス様はこのように教えられました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです(マルコ8:34-35)」。これこそ私たちの信仰の原点です。肉体の死よりも大切なのは、私たちが日々、自分に死んでいるかどうかです。自分の欲のためだけでなく、神と隣人を愛し、与えられている「いのち」を使っているかどうかが重要なのです。間違いを犯さなかったかどうかは重要な問いではありません。神様が一番関心を持たれているのは、あなたが何(誰)のために生きてきたのか、なのです! 

その日は突然やってきます。平均寿命まで生きられたとしても、あと何年残されていますか?やり残していることはありませんか?どうか胸を張って主の前に出ることができますように。 



私にとっては、
生きることはキリスト、
死ぬことも益です。ピリピ1章21節




2012年10月19日金曜日

その11「深い悲しみ」 ヨブ記3章、伝道者3章

今日のテーマは「深い悲しみ」です。このテーマを語るにあたって、ヨブの存在を語らずにはおられません。昔、ヨブという一人の男性がいました。彼は潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていました。彼の人生は祝福され、7人の息子と3人の娘の子宝に恵まれ、その他にも、羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭、それに非常に多くのしもべがいました。しかし彼は一日にして、その家族と財産の全てを失ってしまったのです。その上、彼の体には、つま先から頭の頂まで悪性の腫物が覆い、耐えがたい苦痛の中、彼は土器のかけらで、自分の身をかきむしっていました。その時の気持ちです。「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか(3:11)。私には安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心はかき乱されている(3:26)」。そんな彼を更なる苦しみが襲いました。

その苦しみは友人からの心ない言葉です。最初は良かったのです。3人はヨブを慰めようとやってきました。そしてひどく苦しんでいるのを見て、ただ黙って彼と一緒に座っていました。この時、友人の存在はヨブにとって慰めであったでしょう。しかし時を経るにつれて、段々と友人たちは、お説教じみたことを言うようになってきました。最初エリファズが言いました。「罪のない人が災いにあうだろうか?人は自分で撒いた労苦を刈り取っているのだ(4-5章)」。そうして「お前が悪い事をしたから、災いを刈り取っているんだ」と責めたのです。それを聞いてヨブは答えます。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」。友人の「助言」は、的を射ていないばかりか、ヨブの傷に塩をすり込みました。 

悲しみの受容にはプロセスがあることを知っていますか?①ショック:まだ何が起きているのか自分でも把握しきれていない状況です。お葬式で、家族が気丈にふるまえるのもこの段階です。②否認:その後こんな気持ちになります。「悪い夢を見ているんじゃないだろうか。今にもあの人がそのドアを開けて入ってくるかもしれない」。③怒り:いよいよ現実だと分かってくると、周りや、自分、時には神様にも怒りがわいて来ます。「何で医者はもっと適切な対処をしてくれなかったのか」「何であの時自分は、あんなことを言ってしまったのか?もっと優しくしてあげたかった。」「何で神様はこんなひどい試練を私に与えるのか」など。④抑うつ:怒りの後に、長い落胆が訪れます。幸せだった時のことを、色々思い出し、ただただ悲しいのです。⑤受容:この悲しみの受容のプロセスは、人により何年間も続きます。少し回復したと思えば、また前の段階に戻ってしまうこともあります。そのように行ったり来たりを繰り返しながら、徐々にその人は「喪失の体験」を受け入れ、乗り越え、普通の生活に戻っていくのです。元の生活には戻れないかもしれません。しかし、過去だけではなく、今を生きることができるようになっていくのです。 

クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」。また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」。それなのに、なぜがクリスチャンは、すぐにお説教をしたがるのです。もちろん善意からなのでしょうが、ある時は、悲しみに暮れている人に、真剣に間違いを認めさせようと強く迫るのです。先ほども話したように、悲しみの受容には「プロセス」があるのです。慰めを必要としている人に、どんなに厳しい事を言っても通じませんし、反対に背中を押してほしい人に「そのままでいいんだよ」ばかりを言っていても仕方がないのです。聖書にもこうあります。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある(3:4)。黙っているのに時があり、話をするのに時がある(3:7b)」。 

また自分が今、どのプロセスにいるのか、客観的に見てみることも助けになります。試練のただ中にあって、そんな余裕はないことは重々承知。でも自分の状態を正しく知ることは、自分自身を許すことにもつながるのです。「今私は何もする気が起こらない。でも今自分はそういうところを通っているんだな」。「今私は怒っている。神様こんな私をあわれんで下さい。今はそうとしか思えないのです」。そして開き直るのではなく、そのままの自分を、神様に「おゆだねする」のです。そうする時に、聖霊があなたの心を解きほぐし、少しずついやし、笑顔を戻して下さいます。 

悲しい時、必要なのは友です。本気で心配してくれて、ともに泣いてくれる友達です。イエス様はそんな友となってくださいました。私たちも、悲しむ者の友となることができますように。 



落胆している者には、その友から友情を。 
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。 
ヨブ6章14節

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。 
…わたしはあなたがたを友と呼びました。 
ヨハネ15章15節

喜ぶ者といっしょに喜び、
泣く者といっしょに泣きなさい。
ローマ12章15節




2012年10月10日水曜日

番外編「礼拝筋 (Muscle of Worship)」 創世記22章1-14節

「礼拝は、私たちにとって最も価値のある時間です!」願わくは、全ての人にもそう思って欲しいのですが、なかなかそうとも言い切れません。特に、多くの人にとって、礼拝とは、正直なところ「退屈なところ」「義務(信仰的な良心)で仕方なく参加しているところ」なのかもしれません。ジャック・ヘイフォードは、著書「ワーシップ(礼拝)」の中で、平均的なアメリカの教会の現状についてこう表現しています。「ある夏の暑い日、小さな教会で40-50名の人々は、眠気を誘う説教を聞かされていました。正面から数列目に座る老人のいびきは、妻がそっと小突いても止まりません。後ろの方では、若い女性が一生懸命につめの手入れをしたり、枝毛の手入れをしたりしています。ここにいる人々は、説教者の低くて単調な声が響く中、それぞれの活動に没頭し、早くこの退屈な時間が過ぎ去らないかと思っていたのです。彼らはあまりにも長い間、そのような礼拝を捧げていたので、『ワーシップ(礼拝)とはこんなものだ』と思っていました」。 

礼拝が退屈に感じてしまう原因は何でしょうか?プログラムに問題のある場合もあります。メッセージで使われている表現、歌われている賛美が、現代人の慣れ親しんだスタイルとはかけ離れ過ぎているのです。場合によっては、礼拝堂の扉を開けたとたんに「ここは自分のいるべきところではない」と感じさせているのではないでしょうか?長年、教会生活をしたり、クリスチャンホームで生まれ育ったりした人は、むしろそのほうが落ち着くのです。でもそうでない人もいます。私たちは知らず知らずのうちに、本質ではない形の部分で、人を躓かせているのではないでしょうか?「何が時代とともに変えても良い部分で」「何が変えてはいけない本質的な部分なのか」を祈り、聖書と照らし合わせ、吟味しつつ、教会は常に自己改革をしていかなくてはなりません。聖書にもこうあります。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)」。 

でも多くの場合、問題は捧げる人の心にもあります。「礼拝が楽しくない」という時、私たちはどこかで「もっと楽しい話しをしてほしい」「もっと感動させてほしい」と、まるで「観客」として礼拝に参加しているのです。そして「今日のメッセージは良かった」とか「今日の賛美には感動した」と評価を下しているのです。でも礼拝とは本来「あなた自身を神様にささげる行為」なのです。聖書にこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です(ロマ12:1)」。神様はアブラハムに「モリヤの地で山に登れ(創22:2)」と言われました。私たちもそのように礼拝に招かれています。そして「ひとり子イサクをわたしにささげなさい」と言われたように、私たちの最も価値ある存在、時間、思い、そして力のすべてを、神様にささげなさいと言われているのです。それが本当の礼拝です。 

最高の礼拝を捧げるにはトレーニングが必要なことを知っていますか?賛美のトレーニングのことではありません。もちろん技術も大切ですが、ここで言っているのは「心」のトレーニングのことです。私たちの心には「礼拝筋(きん)」があります。普段それを使っていないと、衰えるばかりです。でも鍛えれば鍛えるほど増えていくのです。普段まったくトレーニングしていない人が、いきなりマラソンを完走できますか?いきなり試合で最高のパフォーマンスをすることができますか?無理です!同様に、普段から「礼拝筋」を鍛えていなければ、最高の礼拝を捧げることはできないのです。礼拝筋とは、神様に思いを集中する心の筋肉のことです。普段からデボーションの中で、神様に思いを集中し、心から祈り、注意深く聖書を読むことによって、この筋肉は鍛えられます。その積み重ねがあって、初めて「最高の礼拝」を体験することができるのです。

心からの礼拝を捧げるとき、あなたの人生は祝福で満ち溢れます!イサクをささげたアブラハムは、イサクを失ったでしょうか?いいえ、神様はアブラハムにイサクを返し、更なる祝福で彼の人生を満たされました。あなたも、あなたにとっての最高を、神様にささげて下さい。きっと神様は、何倍もの祝福で、あなたを満たされます。「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)!」



だから、
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)



2012年10月3日水曜日

その10「うまくいきすぎている」 ルカ12章、ピリピ4章

今私たちは「人生の危機への対処」と題し、ボブ・ラッセルの著書に沿って学びを続けています。そして今日のテーマは「うまくいきすぎている」です。「人生の危機」と「うまくいきすぎている」、この二つがどう繋がるのでしょうか?そのことに関して、ボブは次のように説明しています。「ほとんどの人にとって、信仰の戦いがあるのは、困難な時よりもむしろうまくいっている時です。繁栄の時に信仰を守り通せる人一人に対して、困難な時に守り通せる人は100人いるだろうと言われています。困難な時、私たちは神により近づき、神に頼るようになりやすいのです。けれども、物事がうまくいっている時は、神のことを忘れて自分のやり方で行こうとしがちなのです」。 

成功自体がいけないのではありません。聖書にはこうあります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える(詩1:2-3)」。決して「成功そのものがいけない」とか「うまくいきすぎていることに罪悪感を覚えなければいけない」とか、そういうことではありません。また、クリスチャンになったらからと言って必ず成功するとも言われていません。聖書には、前回も学びましたが「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」ともあります。大切なのは、順境の日も、逆境の日も、主とともに歩む秘訣を心得ていることです(4:12)。 

成功者は偉いのでしょうか?以前アメリカのビジネス誌フォーチュンが、成功をおさめ、財産を築いたビジネスマンが「若い時の妻」を捨てて「若い妻」と結婚する傾向が強いことを明らかにしました。これだけのことを成し遂げたのだから、自分にはそれだけの価値があると思うのだそうです。長年、経営者のカウンセリングに当たってきたハリー・リヴィングストンはこう言っています。「懸命に働いて今の地位を築いた人たちにとっては、好き放題に出来ることが報酬となる。彼らはそれを手に入れたいと考えているし、成功によってそうする権利を得たと思っている」。聖書に登場するダビデも、最初は純粋な若者でしたし、神のみこころにかなうものでした(Ⅰサム13:14)。しかし王として成功した時、彼は若い人妻を召し入れ、その夫を殺害したのです。(彼はその後悔い改めましたが、この出来事は彼の半生と、子と、国に、暗い影を落としました) 

成功には誘惑が伴います。①怠惰:成功者は煩わしい仕事から手を引き、楽をしようとします。自分にその仕事はふさわしくないと思うのです。しかしそこに罠があります。ダビデも部下が国のために戦っている時バルコニーでくつろいでいました。その時情欲の罠にはまってしまいました。②偽りの安心:自分の成功に酔いしれて、その成功を与えて下さった神様への感謝も、成功の実を、隣人と分け合うことも忘れてしまうのです。ルカ福音書に登場する金持ちもこう言いました。「さぁ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ!(12:19)」。彼はこの地上にのみ安心を求め、永遠について考えることを止めてしまったのです。③気持ちがそれること:恐らくこれが最も危険な落とし穴です。物事がうまくいき始めると、責任が増し、生活全体が慌ただしくなってしまいます。するとその埋め合わせをするために、まず日曜日に教会に行ったり、奉仕をしたり、聖書を読んだりする時間が削られていくのです。そして段々と心が神様からそれていくのです。 

そして最終的に、神と教会を捨ててしまうのです。それはちょうど、欲にかられた男たちが、若い時の妻を捨てるのと似ています。さんざん世話になり、一番苦しい時に助けられ、一緒に歩んできたのに、成功するとともに、いとも簡単に捨ててしまうのです。彼は言うかもしれない「世話にはなっていない、自分の力でのし上がった」。それこそ究極の自己中心です。同じように、あなたの人生が、ようやくうまくいき始めた時、あなたは言うかもしれません。「神の世話にはなっていない、自分の力でのし上がった。これからは好き放題にさせてもらう」。それが罪なのです。好き放題にするための成功ではありません。そこまで来られたのは、神様の助けがあり、周りの人々の助けがあったからです。そのことに感謝して、本当の意味で、神と人とを愛する者となることが、成功の意味であり目的なのです。あなたの成功を通して神の栄光が現れますように。 

「うれしい時の神頼み」若い時に読んだ三浦綾子さんの言葉です。その言葉がずーっと心に残っていて、私の心の襟をただします。私の母は「勝って兜の緒を締めよ」と口癖のように言いました。物事がうまくいき始める、まさにその時、私たちの価値観がふるいにかけられるからです。



人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、
何の得がありましょう。
マタイ16章26節A

私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
ピリピ4章12節




2012年9月27日木曜日

その9「きつい言葉」ヨハネ15章、ルカ6章

前回は「心配・思い煩い」というテーマで教えられました。私たちは心配したくなくても、心配してしまいます。その心配から解放されるためにはどうしたら良いのでしょう?まず不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩う時、私たちは神の言葉を拒否し、結局自分しか信じていないのです。私たちは神に代わって全てをコントロールできるわけではありません。心配したからと言って、自分の人生を僅かでも伸ばすことはできません。だからクリスチャンは、やるべきことをやったら、明日のことは神様にお任せするのです。それ以上心配してはなりません。「今日を精いっぱい生きよ」その先に主の最善があると信じて。今日のテーマは「きつい言葉」です。 

私たちの周りには「きつい言葉」があふれています。クリスチャンに対しても例外ではありません。「宗教はどれも嫌」「嘘ばっかり書いてある聖書をよく信じるな」「どうせ不寛容な一神教でしょ」。ほとんどは、人から聞いた言葉のオウム返し。世間一般の「偏見」を口にすることで、多数派にいると安心しているのです。メディアにもそのような偏見が溢れています。世界中いたるところでクリスチャンに対する迫害が起きています。その結果、捕らえられ、殺されるクリスチャンも少なくありません。しかしそれらが報道されることはほとんどありません。一方クリスチャンが何かの間違いを犯すと途端に大きく報道され、クリスチャン全体に対する風当たりが強くなることがあります。もちろん罪は罪なのですが、明らかに偏った報道がなされているように思います。 

驚いてはいけません。それはある意味、当然のことなのです。聖書にもこうあります。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも驚いてはいけません(Ⅰヨハネ3:13)」。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです(ヨハネ15:19)」。もちろんクリスチャンが100パーセント正しいわけではありません。「私たちは正しいからこそ批判される」と最初から開き直るのではなく、どんな批判にも謙遜に耳を傾け、悔い改めることは大切です。きっと批判の中にも、気づきを与え、成長させてくれる「何か」があるはずです。でも実際にクリスチャンだというだけで、嫌われたり、批判されたり、好奇の目にさらされたりすることもあるのです。そんな時私たちはどのように対処したら良いのでしょうか? 

まず感謝しましょう。不正を行い、攻撃される人はたくさんいます。彼らは当然の報いを受けているのです。でも、もし私たちが、信仰をもったゆえに、不当な扱いを受けるなら、その時私たちはキリストと同じ苦しみを味わっているのです。聖書にはこうあります「(試練に会う時)むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(Ⅰペテロ4:13)」。「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」。 

つぎにユーモアのセンスを磨きましょう。何にでもケチをつける意地悪い人はどこにでもいます。悪意のある言葉に対し、同じ土俵で争ってはいけません。こんなエピソードがあります。かつて世界的に有名な伝道者ビリー・グラハムがクイーンメリー号でイギリスからアメリカに渡った時のこと、あるリポーターがこういいました。「イエスはロバに乗ったんですよ。イエスがこんな豪華客船で到着するなんて想像もつきませんね」。この質問に対し、グラハムの友人グラディ・ウィルソンはこう答えました。「大西洋を泳いで渡るロバがいると言うのかい?いたら買うよ」。 

そして相手のために祈りましょう。いくら相手にうまく言い返して黙らせたとしても、相手の心を失ったら何にもなりません。その時私たちは神様の前に敗北者です。事実は理性的に伝えつつも、あとは神様にお任せし、相手のために祈る時、私たちは本当の意味で勝利者とされるのです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい(ルカ6:27)」とイエス様も教えられました。目的は、相手をギャフンと言わせることではありません。相手がイエス様の愛に触れ、本当の意味で変えられることです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです(Ⅰペテロ3:9)」。 

ボールを持つ者はタックルされる!あなたに対する風当たりが強いのは、あなたが今ボール(勝利のカギ)を持っているからかもしれません。屈することなく、ゴールを目指して走りなさい! 



あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。
それはただ悪への道だ。

詩篇37篇5,8節









2012年9月19日水曜日

その8「心配・思い煩い」 マタイ6章、ピリピ4章

前回は「良心」について学びました。「『神のかたち』に創造された私たちの心には、生まれながらにして、神様のみこころが書き記されています。それを『良心』と言いますが、その良心は、間違った情報や罪によって汚染されていて正常な機能を失っています。そのまま放置すれば霊的な死(神様との関係の断絶)に至ってしまいます。しかしイエス様の十字架の血は、私たちの心を洗いきよめます。聖書にこうあります『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。今日のテーマは「心配」です。 

私たちはなぜ心配するのでしょうか?心配の種となりえることは山ほどあります。例えば ①仕事のこと ②健康のこと ③老後のこと ④子供のこと ⑤災害が起きたらどうしよう ⑥戦争になったらどうしよう ⑦伴侶に先立たれたらどうしよう、などなど。でも、それらは心配したからと言って少しでも良くなることでしょうか?ボブ・ラッセルはこういいます。①心配事の40パーセントは実際には起こらない ②30パーセントは今さらどうにもならないこと(過去に関すること)③12パーセントは健康に関しての行き過ぎた心配 ④10パーセントは、悩んでないで行動を起こせばすぐ解決しそうな些細なこと ⑤本当に心配するに足るものは僅か8パーセントである。 

漠然とした心配のことを「思い煩い」といいます。こんな例えがあります。「近所に鶏を飼っている人がいました。夜中に雄鶏が大声で鳴くので、太郎さんはぐっすり眠ることができません。太郎さんが苦情を言うと、飼い主はこう言いました。『文句を言うなよ。一晩にたった三、四回鳴くだけじゃないか』。でも太郎さんも反論します。『そうかもしれない、でもいつ鳴くかと思うと不安で仕方ないんだ』」。もちろん夜中の騒音は問題です。しかしこの話しは、私たちの不安の性質をよく表しています。それは大きく二つの要素から成っています。①過去にこういうことがあった ②またそうなるかもしれない。そうして実際に起こってもいないことを、予測して心配しているのです。更にひどくなると、いつも最悪の結果を予測して、不安から何もしなかったり、やり過ぎたりして、本当に最悪の結果を招き、「ほらやっぱり」とますます深みにはまっていくのです。そうなると不安神経症といい、なかなかその思考回路から這い出ることはできません。 

聖書の原則は、過去のことでも、明日のことでもなく、「今を生きろ」です。イエス様は「明日のことは明日が心配します」と言われました。裏を返せば「その日その日を、神の国とその義とを第一にして、精一杯に生きなさい。そのことの方が『何を食べるか、着るか』と自分のことばかりを心配して不安になるより、はるかに大事なことだ」ということです。そういう意味で「労苦は、その日その日に十分ある」のです(マタイ6:34)。祝福というのは、思い煩って、手に入るものではありません。どんなに小さなことでも、神様を愛し、心をこめて行う。何度失敗しても、また今日から、神様を信頼して、勇気を持って始める。その先に祝福が待っているのです。聖書にはこうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」。そうして、どんな結果が待っていても、感謝をもって受け入れ、また「今日」から始めるのです。 

どうしたら心配から解放されるのでしょうか?まずは不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩っている人は、結局、神の言葉を拒否し、自分しか信じていないのです。「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる?そんなバカな!私はまだ自分の力で頑張るから放っておいてくれ」「キリストの平安?そんなものでメシは食えんよ。頼りになるのは自分だけさ」。そうして何でも自分でコントロールできるし、しようとしているのです。はっきり言いますが、それは自分を神とする「罪」です。いつか破綻します。クリスチャンの生き方はその正反対です。思い煩うのをやめなさい。心配したからといって、明日をコントロールすることはできないのだから。明日のことは神様にゆだねて、今日を精いっぱい生きなさい!それが神様のメッセージです。

あなたの心配事は何ですか?神様を信頼して、新しい人生を生きてみませんか?ただ単に洗礼を受けることではありません、神様を信頼する、信仰の世界に飛び込もうと言っているのです。



だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。 
労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6章33-34節




その7 「良心」 ローマ2章、ヘブル9章

前回私たちは神様に対する「反発」についてこう学びました。「しかしあくまで自分でやってみないと納得できない、どうして嫌だというなら、神様はあえてあなたをそのままにされることがあります。その先には神様の懲らしめが待っています。それは、あなたが、罪の悲惨と、神様の愛がどれほど深いかを身をもって知り、より愛する者となって、帰ってくるためです。その時、私たちは気づくことでしょう。自分の受けた懲らしめなんて本当に僅かなもので、その何倍もの懲らしめを、イエス様が十字架の上で受けて下さったことを」。今日のテーマは「良心」です。

そもそも「良心」とは何でしょうか?そのことを考えるときに、本当に不思議な気がします。世界には色々な民族がいます。でも良心となると、全世界にある程度、共通の価値観が見いだせるのです。合理的に生きて、弱肉強食を正当化するなら、愛など邪魔なはずなのに、人間は愛なしには生きられません。それは私たちが「愛である神様(Ⅰヨハネ4:16)」に創られた、特別な「霊的な存在(神のかたち)」だからです(創世記2:7、マラキ2:15)。だから聖書を一度も読んだことがなくて、神様のことを全然知らない人でも、心の奥底では正しいことや、愛のあることを慕い求めているのです。聖書にもこうあります。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが(生まれながらにして)彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています(ロマ2:15)」。

しかしその良心は、長い年月の間に随分ゆがんでしまいました。コンピューターでも、使えば使うほど余分なデータが蓄積したり、プログラムにエラーが生じたりして、正常に機能しなくなります。私たちの心もある意味似ています。人類は長い時代を経て、また個人においても経験を積めば積むほど、神様の喜ばれない情報をいっぱい見聞きし、罪というエラーが心を汚染し、知らないうちに良心が正常に機能しなくなっているのです。いったいどのような症状が現れるのでしょう。

良心が誤作動し、過敏に反応してしまうのです。聖書には「弱い良心」という言葉が登場します(Ⅰコリ8:7)。偶像礼拝は聖書においてはっきり禁じられています。しかし偶像に捧げられた肉を食べることは特に禁じられていません。でもそれを食べることによって良心が傷つき、罪悪感を覚えてしまう人がいる。そのように敏感を通り越し「過敏になってしまった良心」のことです。こういう人は必要以上にたくさんの律法(宗教的なルール)を設け、自分も他人もがんじがらめにしてしまう傾向があります。そして信仰がかえってその人を苦しめてしまう矛盾が起こるのです。

反対に、良心が鈍感になり過ぎるのも問題です。聖書に登場する重い皮膚病は忌み嫌われていました。それは神経が麻痺し、小さな傷から腐敗が広がり、やがて死んでしまう様子が、罪とよく似ていたからです(イエス様は彼らを愛し、触り、癒されましたが)。良心も無視し続けると、だんだん鈍感になっていきます。多くの人は理論武装をし、良心の声を必死でブロックします。「みんなもやっているさ」「たいしたことないさ」。でも、そうしていると、良心が麻痺し、やがて霊的に死んでしまうのです。「罪からくる報酬は死(神様との関係の破綻)です(ローマ6:23)」。

どうしたら健全な良心を持ち続けることができるのでしょうか?聖書にはこうあります。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。まずはイエス様を心にお迎えすることです。そして自分で自分をコントロールしようとすることも止めて、この方にすべてをゆだねることです。すると聖霊が、あなたの心を内側からきよめ、時間をかけて癒してくださいます。また御言葉をバランスよく読み続けることも大切です。この際も、決して自分で自分を救おうとしないでください。牧場に憩う羊のようにゆっくり御言葉を味わうのです。「あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心にたくわえました(詩篇119:11)」。こうしてエラーが積み重なった私たちの心は新しくされていくのです。

あなたの良心は正常に機能していますか。一切の言い訳を捨て、神様の前に静まる時間をつくりましょう。目を閉じて神様に思いを集中しましょう。感じませんか「イエス様のささやき」が。



まして、キリストが傷のないご自身を、
とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、
どんなにか私たちの良心をきよめて
死んだ行いから離れさせ、
生ける神に仕える者とすることでしょう。
(ヘブル9章14節)