ご存知ですか?「疑い」にも、良い疑いと、悪い疑いがあるのです。私たちは理性をもっていますから、疑いを感じないということはあり得ません。もしいるなら、最初から信じる価値もないと思っているから、疑いも感じないのでしょう。私たちは、何かに真剣に向き合うなら、そしてそれを信じたいと強く願うなら、自分の中に潜んでいる「疑い」という感情とも向き合わなければなりません。信仰とは、理性を無視して、やみくもに「信じろ」というものではありません。理性もまた神様からの賜物です。神様は決して理性を否定なさいません。有名な哲学者が言いました。「中途半端な信条(口先だけの信仰や知識)よりも、率直な疑いの中に、(真実な)信仰があるのですp47」。率直な疑いは、真実を知りたくて、自分の理性も総動員して、追い求めているから生まれるのです。それは「良い疑い」なのです。ペテロも主を信頼して水の上を歩きましたが疑ってしまいました(マタイ14:31)。また苦しむ息子を前にして、父親はイエス様に言いました。「信じます、不信仰な私をお助け下さい(マルコ9:24)」。彼らはみな、主を求めていました。悪い疑いは、そのような願いも求める心もなく、主(もしくはその存在自体)を侮(あなど)ることです。聖書にはこうあります。「愚か者は心の中で、[ 『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない(詩篇14:1)」。良い疑いは、もがきながらも真理に至ります。しかし悪い疑いは何も生み出さないばかりか、人を破滅に導きます。
小さな神体験の積み重ねが「疑い」を払拭(ふっしょく)します?いきなり信仰の巨人になることはできません。ボブ・ラッセルは面白い例えを用いています。「ある建築業者が(深い渓谷の)対岸にいる人に向かってたこを飛ばしました。向こう側に届いたたこにロープを結ぶと、糸を引いて、たことロープをたぐり寄せます。次にロープにケーブルが結ばれ、そうやって何度もケーブルが渡され、少しずつ丈夫な橋が造られるのですp52」。私たちの信仰も、最初は、たこ糸のように細くて頼りないかもしれません。しかし小さな神体験を繰り返す中で、信仰は徐々に鍛えられ、神様との間に丈夫な「信仰の橋」が架けられていくのです。ギデオンも「わたしがあなたを遣わす」と言われた時、信じられず「自分にはできない」と主を疑いました(6:15)。しかし彼はそこで諦めるのではなく、何度も食らいつくようにしるしを求めました(6:17,37,39)。これは悪いことではありません。彼はなんとか主の期待にこたえたかったのです。私たちも真摯に主に求めるなら、主は答えて下さいます。その際に気をつけることは、劇的なことばかりではなく、日常の小さなことの中に主の御業を見つけ感謝することです。その積み重ねが信仰を育むのです。
でも最終的には、主のやり方に従わなければなりません。いつまでもしるしばかりを求めたり、御心が示されても従わなかったりしていてはいけません。こんなことをありませんか?「神様、もし○○してくれたら何でもあなたの言うことに聞き従います」と祈っておいて、いざとなると忘れてしまうなんてことが。安易にしるしを求めることは「主を試みる罪」です(マタイ4:7)。ギデオンはしるしを求めましたが、ちゃんとその答えにも従いました。彼はイナゴの大群のようなミデヤン兵と海辺の砂のようなラクダの軍隊に、たった300人の兵で立ち向かったのです!すると神様は不思議な御業を行われ、驚くような大勝利を収めることができました(7章)。私たちが信仰をもって立ち上がる時に、主がともに戦ってくださいます。いや主が先立って、私たちのために戦ってくださるのです。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です(Ⅰヨハネ5:4)」。
からし種ほどの信仰がありますか?よく「もっと信仰の立派な人に…」という言葉を聞きます。でも立派な信仰なんて誰も持っていません。信仰とは、努力によって生まれるものではなく、ただ恵みによって与えられるものです(エペソ2:8-9)。私たちに出来るのは、ひたすら求め続けることと、従うことです。ギデオン自身は弱い人でした。でも彼はひたすら求めて、従ったのです!
「もし、からし種ほどの信仰があったら、
この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。
どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。
どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
マタイ17章20節