2012年6月28日木曜日

その2 「疑い」 士師記6-7章

前回は「恐れ」について学びました。「勇気とは恐れがないことではありません。恐れがあるにもかかわらず、行動を起こすということです。…自分の力ではなく、神の約束を信じて下さい。神の助けによって恐れを克服してください。みことばを心に蓄えて下さい。強く、雄々しくあれ、主なる神はあなたとともにおられます」。シリーズ第2回目の今日は「疑い」についてです。

ご存知ですか?「疑い」にも、良い疑いと、悪い疑いがあるのです。私たちは理性をもっていますから、疑いを感じないということはあり得ません。もしいるなら、最初から信じる価値もないと思っているから、疑いも感じないのでしょう。私たちは、何かに真剣に向き合うなら、そしてそれを信じたいと強く願うなら、自分の中に潜んでいる「疑い」という感情とも向き合わなければなりません。信仰とは、理性を無視して、やみくもに「信じろ」というものではありません。理性もまた神様からの賜物です。神様は決して理性を否定なさいません。有名な哲学者が言いました。「中途半端な信条(口先だけの信仰や知識)よりも、率直な疑いの中に、(真実な)信仰があるのですp47」。率直な疑いは、真実を知りたくて、自分の理性も総動員して、追い求めているから生まれるのです。それは「良い疑い」なのです。ペテロも主を信頼して水の上を歩きましたが疑ってしまいました(マタイ14:31)。また苦しむ息子を前にして、父親はイエス様に言いました。「信じます、不信仰な私をお助け下さい(マルコ9:24)」。彼らはみな、主を求めていました。悪い疑いは、そのような願いも求める心もなく、主(もしくはその存在自体)を侮(あなど)ることです。聖書にはこうあります。「愚か者は心の中で、[  『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない(詩篇14:1)」。良い疑いは、もがきながらも真理に至ります。しかし悪い疑いは何も生み出さないばかりか、人を破滅に導きます。 

小さな神体験の積み重ねが「疑い」を払拭(ふっしょく)します?いきなり信仰の巨人になることはできません。ボブ・ラッセルは面白い例えを用いています。「ある建築業者が(深い渓谷の)対岸にいる人に向かってたこを飛ばしました。向こう側に届いたたこにロープを結ぶと、糸を引いて、たことロープをたぐり寄せます。次にロープにケーブルが結ばれ、そうやって何度もケーブルが渡され、少しずつ丈夫な橋が造られるのですp52」。私たちの信仰も、最初は、たこ糸のように細くて頼りないかもしれません。しかし小さな神体験を繰り返す中で、信仰は徐々に鍛えられ、神様との間に丈夫な「信仰の橋」が架けられていくのです。ギデオンも「わたしがあなたを遣わす」と言われた時、信じられず「自分にはできない」と主を疑いました(6:15)。しかし彼はそこで諦めるのではなく、何度も食らいつくようにしるしを求めました(6:17,37,39)。これは悪いことではありません。彼はなんとか主の期待にこたえたかったのです。私たちも真摯に主に求めるなら、主は答えて下さいます。その際に気をつけることは、劇的なことばかりではなく、日常の小さなことの中に主の御業を見つけ感謝することです。その積み重ねが信仰を育むのです。 

でも最終的には、主のやり方に従わなければなりません。いつまでもしるしばかりを求めたり、御心が示されても従わなかったりしていてはいけません。こんなことをありませんか?「神様、もし○○してくれたら何でもあなたの言うことに聞き従います」と祈っておいて、いざとなると忘れてしまうなんてことが。安易にしるしを求めることは「主を試みる罪」です(マタイ4:7)。ギデオンはしるしを求めましたが、ちゃんとその答えにも従いました。彼はイナゴの大群のようなミデヤン兵と海辺の砂のようなラクダの軍隊に、たった300人の兵で立ち向かったのです!すると神様は不思議な御業を行われ、驚くような大勝利を収めることができました(7章)。私たちが信仰をもって立ち上がる時に、主がともに戦ってくださいます。いや主が先立って、私たちのために戦ってくださるのです。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です(Ⅰヨハネ5:4)」。 

からし種ほどの信仰がありますか?よく「もっと信仰の立派な人に…」という言葉を聞きます。でも立派な信仰なんて誰も持っていません。信仰とは、努力によって生まれるものではなく、ただ恵みによって与えられるものです(エペソ2:8-9)。私たちに出来るのは、ひたすら求め続けることと、従うことです。ギデオン自身は弱い人でした。でも彼はひたすら求めて、従ったのです! 



「もし、からし種ほどの信仰があったら、
 この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。
 どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

マタイ17章20節




2012年6月14日木曜日

その1 「恐れ」 ヨシュア1章

今回から新しいシリーズを始めたいと思います。タイトルは「人生の危機への対処」。参考にしていると書があります。ボブ・ラッセル著「12の危機からあなたを守る聖書のメッセージ」(いのちのことば社)。私たちの人生にはほんとに色々なことが起こります。良い意味でも、悪い意味でも、どんな映画より、皆さんの人生の方がドラマチックで、思いがけないことに満ちています。私たちは、その都度、信仰者として、祈り、叫び求めて、主から解決を得て行くのですが、もっと大切なことは、普段から心の備えをしていくことではないでしょうか?今は当てはまらなくても、いざという時のために、一緒に学んでおきましょう。最初のテーマは「恐れ」です。

あなたはどんな時に「恐れ」を感じますか?人それぞれ、恐れを感じるツボは違っています。代表的なものを4つ上げましょう。①「○○恐怖症」ある特定の事柄に強い拒否反応を示すこと。過去のトラウマか、未知の領域に対する不安か、高所恐怖症とか、恐水症とかがある。また何にでも不安を感じることを不安神経症ともいう。②「コントロールを失うことへの恐れ」完ぺき主義者と呼ばれる人々に多いタイプ。何でも自分の枠(わく)に収め、自分が決めようとし、コントロール(支配)していなければ気が済まない。人間関係や仕事においても、人が自分の予想や計画と違うことを決めたりやったりすると、パニックになり怒り出す。反対に自分が主導権を握れないことには無関心で、むしろ避けたがる。このような人が親になると、子どもの成長や主体性を認められない。③「自分の本性を知られる恐れ」読んで字のごとく、本当の私を知ったら、みんな私のことを嫌いになるに決まっている、という恐れ。クリスチャンになる前の自分を知られることを恐れることもある。④「人を失望させることへの恐れ」例えば、本当は離れなければいけないのに、相手をがっかりさせたくなくて、いつまでもその関係に耐え続けてしまう。相手は、その罪悪感を利用して、あなたをコントロールすることもできる。どうでしょうか?何か当てはまりますか?まずは自分が「恐れてしまうツボ」を知り、認めましょう。それが解決の第一歩です。

ヨシュアもきっと、色々な「恐れ」を感じていたことでしょう?まずヨシュアは、偉大な指導者モーセの後継者でした。モーセは紅海を真っ二つに分け、反抗する民を何度も鎮め、40年にわたって民を導いた偉大な指導者でした。かたやヨシュアには、そのような経験も実績もありませんでした。目の前に広がるのは約束の地カナン。しかも、そこには難攻不落(なんこうふらく)のエリコの町があり。戦いに長けた民が住んでいるのです。「民はついてきてくれるだろうか」「民と主の期待に応えることができるだろうか」きっと色々心配し、プレッシャーを感じていたことでしょう。そんなヨシュアに主は命じられました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである(9)」。また民もこういうのです。「私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。…ただ強く、雄々しくあってください(17,18)」。きっとヨシュアは嬉しかったでしょうね。何よりも彼にとって「わたしがあなたとともにいる」との約束は心強かったことでしょう。 

「恐れ」そのものがいけないのではありません。恐れや不安を感じるから、人は物事に備えることができますし、神に祈ることもできるのです。しかし、その不安をどこに持って行ったらよいのか分からず、重圧に押しつぶされそうになる時、その「恐れ」が破壊的な力を持ち始めるのです。ボブ・ラッセルは言います「神はあなたが恐れることを良しとしておられます。神がともにいてくださるということに信頼し、より頼むようになるためです。勇気とは恐れがないことではありません。恐れがあるにもかかわらず、行動を起こすということです。…自分の力ではなく、神の約束を信じて下さい。神の助けによって恐れを克服してください。(愛と慰めに満ちた)みことばを心に蓄えて下さい。強く、雄々しくあれ、主なる神はあなたとともにおられます(p30)」。 

恐れないあなたになるのではなく、恐れに打ち勝つあなたになってください!そのために必要なのは、御言葉をいつも口ずさみ、心に蓄えること。でもこれだけを強調すると「きょう御言葉を読んでいない…」と反対に不安になってしまうことも。だから一番大切なのは、「どんな時にも」「私たちのことを全部知ったうえで」それでも共にいてくださる主に信頼することなのです。


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41章10節