2012年10月25日木曜日

その12「死に直面している」 ピリピ1章、Ⅱテモテ4章

今日のテーマは「死に直面している」です。その昔、家族はもっと大きく、近所付き合いも密で、医療も発達していなかったので、死はもっと身近なものでした。戦時中であればなおさらのこと。しかし核家族化が進んだ現在、私たちが死に直面する機会は極端に減りました。「バカの壁」を書いた養老孟司は、ある著書の中で(少々不謹慎ですが)こう書いています。「現代人は、まるで排泄物のように、『死』を生活の見えない領域に追いやってしまいました」。確かにその通りです。多くの人は病院でひっそり亡くなり、亡骸は火葬場で焼かれ、ごく近い親族を除いて、『死』は誰の目に触れることもなく処理されるようになりました。そして人々は、普通に生活していれば「死」について全く考えなくても済むようになってしまったのです。しかし私たちの人生において「死」について考えることはとても重要です。聖書にもこうあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ(伝道7:2)」。このシリーズの最後に「死」について考えましょう。 

死を現実のこととしてとらえていますか?プロゴルファーのポール・エージンガーが癌に気付いたのは1993年のPGAチャンピオンシップの優勝が決まった時でした。その時の様子をこう記しています。「レントゲン室で、氷みたいに冷たいテーブルの上に寝かされて、緊張のあまり震えていました。恐ろしかったのです。技師が機械を調整している間、私は本物の不安が自分にのしかかってくるのを感じました。癌で死ぬんだ。でももう一つの現実に、もっと強く心を打たれました。実のところ私はどのみち死ぬんだ。癌であれその他の理由であれ。問題はそれがいつになるかということにすぎないんだ」。私の母も癌に侵されていましたが、ある時ふとこう言いました。「心臓の鼓動が聞こえる。トントントン。人間は生まれた時から、いずれ死ぬことが決まっている。この鼓動もやがて止まる。そう考えると、この鼓動は死へのカウントダウンではないか」。この現実は、ある時突然私たちに襲ってきます。死の問題は、全ての人に共通のテーマです。それなのに私たちは、何かが起こるまで、なかなかこの問題に真剣に向き合おうとしないのです。 

死への備えができていますか?先に紹介したプロゴルファーは化学療法を受けて回復し、その後も活躍を続けました。しかし彼の人生観は以前とは180度異なっていました。「(今回の経験を通して)真の満足を得るための唯一の方法が分かりました。それはイエス・キリストとの個人的な関係を持つことです。(この方に出会い)私はとてつもなく大きな答えを手に入れました。それは何をする時にでも、神様が私をご自身の子どもとして助けて下さるという約束です。どのようなことが起ころうとも、例え癌が再発しようとも…。神様はこの世を最善の場所にしようとは考えておられません。この世は、最善の場所へ行くために準備する場所なのです」。また私の母は、最後まで信仰を保ち、このキリストの素晴らしさを証ししながら、御国に旅立っていきました。死への備えができている人にとって、肉体の死は一つの通過点に過ぎません。その先には主イエスキリストが自ら備えて下さった、永遠の場所(住まい)が約束されているのです(ヨハネ14:3)。そこには主を賛美する仲間がいます。そして、死も、苦しみも、悲しみもないのです(黙示21:4)。 

あなたは「義の栄冠」を受けるような生き方をしていますか?パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が用意されているだけです(Ⅱテモテ4:7-8)」と告白しました。そこに一切の後悔はなく、自分の人生に対する誇りが溢れています。私たちは人生の最後にどのような言葉を残すでしょうか?そこに「やりきった感」はあるでしょうか?イエス様はこのように教えられました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです(マルコ8:34-35)」。これこそ私たちの信仰の原点です。肉体の死よりも大切なのは、私たちが日々、自分に死んでいるかどうかです。自分の欲のためだけでなく、神と隣人を愛し、与えられている「いのち」を使っているかどうかが重要なのです。間違いを犯さなかったかどうかは重要な問いではありません。神様が一番関心を持たれているのは、あなたが何(誰)のために生きてきたのか、なのです! 

その日は突然やってきます。平均寿命まで生きられたとしても、あと何年残されていますか?やり残していることはありませんか?どうか胸を張って主の前に出ることができますように。 



私にとっては、
生きることはキリスト、
死ぬことも益です。ピリピ1章21節




2012年10月19日金曜日

その11「深い悲しみ」 ヨブ記3章、伝道者3章

今日のテーマは「深い悲しみ」です。このテーマを語るにあたって、ヨブの存在を語らずにはおられません。昔、ヨブという一人の男性がいました。彼は潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていました。彼の人生は祝福され、7人の息子と3人の娘の子宝に恵まれ、その他にも、羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭、それに非常に多くのしもべがいました。しかし彼は一日にして、その家族と財産の全てを失ってしまったのです。その上、彼の体には、つま先から頭の頂まで悪性の腫物が覆い、耐えがたい苦痛の中、彼は土器のかけらで、自分の身をかきむしっていました。その時の気持ちです。「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか(3:11)。私には安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心はかき乱されている(3:26)」。そんな彼を更なる苦しみが襲いました。

その苦しみは友人からの心ない言葉です。最初は良かったのです。3人はヨブを慰めようとやってきました。そしてひどく苦しんでいるのを見て、ただ黙って彼と一緒に座っていました。この時、友人の存在はヨブにとって慰めであったでしょう。しかし時を経るにつれて、段々と友人たちは、お説教じみたことを言うようになってきました。最初エリファズが言いました。「罪のない人が災いにあうだろうか?人は自分で撒いた労苦を刈り取っているのだ(4-5章)」。そうして「お前が悪い事をしたから、災いを刈り取っているんだ」と責めたのです。それを聞いてヨブは答えます。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」。友人の「助言」は、的を射ていないばかりか、ヨブの傷に塩をすり込みました。 

悲しみの受容にはプロセスがあることを知っていますか?①ショック:まだ何が起きているのか自分でも把握しきれていない状況です。お葬式で、家族が気丈にふるまえるのもこの段階です。②否認:その後こんな気持ちになります。「悪い夢を見ているんじゃないだろうか。今にもあの人がそのドアを開けて入ってくるかもしれない」。③怒り:いよいよ現実だと分かってくると、周りや、自分、時には神様にも怒りがわいて来ます。「何で医者はもっと適切な対処をしてくれなかったのか」「何であの時自分は、あんなことを言ってしまったのか?もっと優しくしてあげたかった。」「何で神様はこんなひどい試練を私に与えるのか」など。④抑うつ:怒りの後に、長い落胆が訪れます。幸せだった時のことを、色々思い出し、ただただ悲しいのです。⑤受容:この悲しみの受容のプロセスは、人により何年間も続きます。少し回復したと思えば、また前の段階に戻ってしまうこともあります。そのように行ったり来たりを繰り返しながら、徐々にその人は「喪失の体験」を受け入れ、乗り越え、普通の生活に戻っていくのです。元の生活には戻れないかもしれません。しかし、過去だけではなく、今を生きることができるようになっていくのです。 

クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」。また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」。それなのに、なぜがクリスチャンは、すぐにお説教をしたがるのです。もちろん善意からなのでしょうが、ある時は、悲しみに暮れている人に、真剣に間違いを認めさせようと強く迫るのです。先ほども話したように、悲しみの受容には「プロセス」があるのです。慰めを必要としている人に、どんなに厳しい事を言っても通じませんし、反対に背中を押してほしい人に「そのままでいいんだよ」ばかりを言っていても仕方がないのです。聖書にもこうあります。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある(3:4)。黙っているのに時があり、話をするのに時がある(3:7b)」。 

また自分が今、どのプロセスにいるのか、客観的に見てみることも助けになります。試練のただ中にあって、そんな余裕はないことは重々承知。でも自分の状態を正しく知ることは、自分自身を許すことにもつながるのです。「今私は何もする気が起こらない。でも今自分はそういうところを通っているんだな」。「今私は怒っている。神様こんな私をあわれんで下さい。今はそうとしか思えないのです」。そして開き直るのではなく、そのままの自分を、神様に「おゆだねする」のです。そうする時に、聖霊があなたの心を解きほぐし、少しずついやし、笑顔を戻して下さいます。 

悲しい時、必要なのは友です。本気で心配してくれて、ともに泣いてくれる友達です。イエス様はそんな友となってくださいました。私たちも、悲しむ者の友となることができますように。 



落胆している者には、その友から友情を。 
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。 
ヨブ6章14節

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。 
…わたしはあなたがたを友と呼びました。 
ヨハネ15章15節

喜ぶ者といっしょに喜び、
泣く者といっしょに泣きなさい。
ローマ12章15節




2012年10月10日水曜日

番外編「礼拝筋 (Muscle of Worship)」 創世記22章1-14節

「礼拝は、私たちにとって最も価値のある時間です!」願わくは、全ての人にもそう思って欲しいのですが、なかなかそうとも言い切れません。特に、多くの人にとって、礼拝とは、正直なところ「退屈なところ」「義務(信仰的な良心)で仕方なく参加しているところ」なのかもしれません。ジャック・ヘイフォードは、著書「ワーシップ(礼拝)」の中で、平均的なアメリカの教会の現状についてこう表現しています。「ある夏の暑い日、小さな教会で40-50名の人々は、眠気を誘う説教を聞かされていました。正面から数列目に座る老人のいびきは、妻がそっと小突いても止まりません。後ろの方では、若い女性が一生懸命につめの手入れをしたり、枝毛の手入れをしたりしています。ここにいる人々は、説教者の低くて単調な声が響く中、それぞれの活動に没頭し、早くこの退屈な時間が過ぎ去らないかと思っていたのです。彼らはあまりにも長い間、そのような礼拝を捧げていたので、『ワーシップ(礼拝)とはこんなものだ』と思っていました」。 

礼拝が退屈に感じてしまう原因は何でしょうか?プログラムに問題のある場合もあります。メッセージで使われている表現、歌われている賛美が、現代人の慣れ親しんだスタイルとはかけ離れ過ぎているのです。場合によっては、礼拝堂の扉を開けたとたんに「ここは自分のいるべきところではない」と感じさせているのではないでしょうか?長年、教会生活をしたり、クリスチャンホームで生まれ育ったりした人は、むしろそのほうが落ち着くのです。でもそうでない人もいます。私たちは知らず知らずのうちに、本質ではない形の部分で、人を躓かせているのではないでしょうか?「何が時代とともに変えても良い部分で」「何が変えてはいけない本質的な部分なのか」を祈り、聖書と照らし合わせ、吟味しつつ、教会は常に自己改革をしていかなくてはなりません。聖書にもこうあります。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)」。 

でも多くの場合、問題は捧げる人の心にもあります。「礼拝が楽しくない」という時、私たちはどこかで「もっと楽しい話しをしてほしい」「もっと感動させてほしい」と、まるで「観客」として礼拝に参加しているのです。そして「今日のメッセージは良かった」とか「今日の賛美には感動した」と評価を下しているのです。でも礼拝とは本来「あなた自身を神様にささげる行為」なのです。聖書にこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です(ロマ12:1)」。神様はアブラハムに「モリヤの地で山に登れ(創22:2)」と言われました。私たちもそのように礼拝に招かれています。そして「ひとり子イサクをわたしにささげなさい」と言われたように、私たちの最も価値ある存在、時間、思い、そして力のすべてを、神様にささげなさいと言われているのです。それが本当の礼拝です。 

最高の礼拝を捧げるにはトレーニングが必要なことを知っていますか?賛美のトレーニングのことではありません。もちろん技術も大切ですが、ここで言っているのは「心」のトレーニングのことです。私たちの心には「礼拝筋(きん)」があります。普段それを使っていないと、衰えるばかりです。でも鍛えれば鍛えるほど増えていくのです。普段まったくトレーニングしていない人が、いきなりマラソンを完走できますか?いきなり試合で最高のパフォーマンスをすることができますか?無理です!同様に、普段から「礼拝筋」を鍛えていなければ、最高の礼拝を捧げることはできないのです。礼拝筋とは、神様に思いを集中する心の筋肉のことです。普段からデボーションの中で、神様に思いを集中し、心から祈り、注意深く聖書を読むことによって、この筋肉は鍛えられます。その積み重ねがあって、初めて「最高の礼拝」を体験することができるのです。

心からの礼拝を捧げるとき、あなたの人生は祝福で満ち溢れます!イサクをささげたアブラハムは、イサクを失ったでしょうか?いいえ、神様はアブラハムにイサクを返し、更なる祝福で彼の人生を満たされました。あなたも、あなたにとっての最高を、神様にささげて下さい。きっと神様は、何倍もの祝福で、あなたを満たされます。「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)!」



だから、
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)



2012年10月3日水曜日

その10「うまくいきすぎている」 ルカ12章、ピリピ4章

今私たちは「人生の危機への対処」と題し、ボブ・ラッセルの著書に沿って学びを続けています。そして今日のテーマは「うまくいきすぎている」です。「人生の危機」と「うまくいきすぎている」、この二つがどう繋がるのでしょうか?そのことに関して、ボブは次のように説明しています。「ほとんどの人にとって、信仰の戦いがあるのは、困難な時よりもむしろうまくいっている時です。繁栄の時に信仰を守り通せる人一人に対して、困難な時に守り通せる人は100人いるだろうと言われています。困難な時、私たちは神により近づき、神に頼るようになりやすいのです。けれども、物事がうまくいっている時は、神のことを忘れて自分のやり方で行こうとしがちなのです」。 

成功自体がいけないのではありません。聖書にはこうあります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える(詩1:2-3)」。決して「成功そのものがいけない」とか「うまくいきすぎていることに罪悪感を覚えなければいけない」とか、そういうことではありません。また、クリスチャンになったらからと言って必ず成功するとも言われていません。聖書には、前回も学びましたが「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」ともあります。大切なのは、順境の日も、逆境の日も、主とともに歩む秘訣を心得ていることです(4:12)。 

成功者は偉いのでしょうか?以前アメリカのビジネス誌フォーチュンが、成功をおさめ、財産を築いたビジネスマンが「若い時の妻」を捨てて「若い妻」と結婚する傾向が強いことを明らかにしました。これだけのことを成し遂げたのだから、自分にはそれだけの価値があると思うのだそうです。長年、経営者のカウンセリングに当たってきたハリー・リヴィングストンはこう言っています。「懸命に働いて今の地位を築いた人たちにとっては、好き放題に出来ることが報酬となる。彼らはそれを手に入れたいと考えているし、成功によってそうする権利を得たと思っている」。聖書に登場するダビデも、最初は純粋な若者でしたし、神のみこころにかなうものでした(Ⅰサム13:14)。しかし王として成功した時、彼は若い人妻を召し入れ、その夫を殺害したのです。(彼はその後悔い改めましたが、この出来事は彼の半生と、子と、国に、暗い影を落としました) 

成功には誘惑が伴います。①怠惰:成功者は煩わしい仕事から手を引き、楽をしようとします。自分にその仕事はふさわしくないと思うのです。しかしそこに罠があります。ダビデも部下が国のために戦っている時バルコニーでくつろいでいました。その時情欲の罠にはまってしまいました。②偽りの安心:自分の成功に酔いしれて、その成功を与えて下さった神様への感謝も、成功の実を、隣人と分け合うことも忘れてしまうのです。ルカ福音書に登場する金持ちもこう言いました。「さぁ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ!(12:19)」。彼はこの地上にのみ安心を求め、永遠について考えることを止めてしまったのです。③気持ちがそれること:恐らくこれが最も危険な落とし穴です。物事がうまくいき始めると、責任が増し、生活全体が慌ただしくなってしまいます。するとその埋め合わせをするために、まず日曜日に教会に行ったり、奉仕をしたり、聖書を読んだりする時間が削られていくのです。そして段々と心が神様からそれていくのです。 

そして最終的に、神と教会を捨ててしまうのです。それはちょうど、欲にかられた男たちが、若い時の妻を捨てるのと似ています。さんざん世話になり、一番苦しい時に助けられ、一緒に歩んできたのに、成功するとともに、いとも簡単に捨ててしまうのです。彼は言うかもしれない「世話にはなっていない、自分の力でのし上がった」。それこそ究極の自己中心です。同じように、あなたの人生が、ようやくうまくいき始めた時、あなたは言うかもしれません。「神の世話にはなっていない、自分の力でのし上がった。これからは好き放題にさせてもらう」。それが罪なのです。好き放題にするための成功ではありません。そこまで来られたのは、神様の助けがあり、周りの人々の助けがあったからです。そのことに感謝して、本当の意味で、神と人とを愛する者となることが、成功の意味であり目的なのです。あなたの成功を通して神の栄光が現れますように。 

「うれしい時の神頼み」若い時に読んだ三浦綾子さんの言葉です。その言葉がずーっと心に残っていて、私の心の襟をただします。私の母は「勝って兜の緒を締めよ」と口癖のように言いました。物事がうまくいき始める、まさにその時、私たちの価値観がふるいにかけられるからです。



人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、
何の得がありましょう。
マタイ16章26節A

私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
ピリピ4章12節




2012年9月27日木曜日

その9「きつい言葉」ヨハネ15章、ルカ6章

前回は「心配・思い煩い」というテーマで教えられました。私たちは心配したくなくても、心配してしまいます。その心配から解放されるためにはどうしたら良いのでしょう?まず不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩う時、私たちは神の言葉を拒否し、結局自分しか信じていないのです。私たちは神に代わって全てをコントロールできるわけではありません。心配したからと言って、自分の人生を僅かでも伸ばすことはできません。だからクリスチャンは、やるべきことをやったら、明日のことは神様にお任せするのです。それ以上心配してはなりません。「今日を精いっぱい生きよ」その先に主の最善があると信じて。今日のテーマは「きつい言葉」です。 

私たちの周りには「きつい言葉」があふれています。クリスチャンに対しても例外ではありません。「宗教はどれも嫌」「嘘ばっかり書いてある聖書をよく信じるな」「どうせ不寛容な一神教でしょ」。ほとんどは、人から聞いた言葉のオウム返し。世間一般の「偏見」を口にすることで、多数派にいると安心しているのです。メディアにもそのような偏見が溢れています。世界中いたるところでクリスチャンに対する迫害が起きています。その結果、捕らえられ、殺されるクリスチャンも少なくありません。しかしそれらが報道されることはほとんどありません。一方クリスチャンが何かの間違いを犯すと途端に大きく報道され、クリスチャン全体に対する風当たりが強くなることがあります。もちろん罪は罪なのですが、明らかに偏った報道がなされているように思います。 

驚いてはいけません。それはある意味、当然のことなのです。聖書にもこうあります。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも驚いてはいけません(Ⅰヨハネ3:13)」。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです(ヨハネ15:19)」。もちろんクリスチャンが100パーセント正しいわけではありません。「私たちは正しいからこそ批判される」と最初から開き直るのではなく、どんな批判にも謙遜に耳を傾け、悔い改めることは大切です。きっと批判の中にも、気づきを与え、成長させてくれる「何か」があるはずです。でも実際にクリスチャンだというだけで、嫌われたり、批判されたり、好奇の目にさらされたりすることもあるのです。そんな時私たちはどのように対処したら良いのでしょうか? 

まず感謝しましょう。不正を行い、攻撃される人はたくさんいます。彼らは当然の報いを受けているのです。でも、もし私たちが、信仰をもったゆえに、不当な扱いを受けるなら、その時私たちはキリストと同じ苦しみを味わっているのです。聖書にはこうあります「(試練に会う時)むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(Ⅰペテロ4:13)」。「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」。 

つぎにユーモアのセンスを磨きましょう。何にでもケチをつける意地悪い人はどこにでもいます。悪意のある言葉に対し、同じ土俵で争ってはいけません。こんなエピソードがあります。かつて世界的に有名な伝道者ビリー・グラハムがクイーンメリー号でイギリスからアメリカに渡った時のこと、あるリポーターがこういいました。「イエスはロバに乗ったんですよ。イエスがこんな豪華客船で到着するなんて想像もつきませんね」。この質問に対し、グラハムの友人グラディ・ウィルソンはこう答えました。「大西洋を泳いで渡るロバがいると言うのかい?いたら買うよ」。 

そして相手のために祈りましょう。いくら相手にうまく言い返して黙らせたとしても、相手の心を失ったら何にもなりません。その時私たちは神様の前に敗北者です。事実は理性的に伝えつつも、あとは神様にお任せし、相手のために祈る時、私たちは本当の意味で勝利者とされるのです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい(ルカ6:27)」とイエス様も教えられました。目的は、相手をギャフンと言わせることではありません。相手がイエス様の愛に触れ、本当の意味で変えられることです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです(Ⅰペテロ3:9)」。 

ボールを持つ者はタックルされる!あなたに対する風当たりが強いのは、あなたが今ボール(勝利のカギ)を持っているからかもしれません。屈することなく、ゴールを目指して走りなさい! 



あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。
それはただ悪への道だ。

詩篇37篇5,8節









2012年9月19日水曜日

その8「心配・思い煩い」 マタイ6章、ピリピ4章

前回は「良心」について学びました。「『神のかたち』に創造された私たちの心には、生まれながらにして、神様のみこころが書き記されています。それを『良心』と言いますが、その良心は、間違った情報や罪によって汚染されていて正常な機能を失っています。そのまま放置すれば霊的な死(神様との関係の断絶)に至ってしまいます。しかしイエス様の十字架の血は、私たちの心を洗いきよめます。聖書にこうあります『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。今日のテーマは「心配」です。 

私たちはなぜ心配するのでしょうか?心配の種となりえることは山ほどあります。例えば ①仕事のこと ②健康のこと ③老後のこと ④子供のこと ⑤災害が起きたらどうしよう ⑥戦争になったらどうしよう ⑦伴侶に先立たれたらどうしよう、などなど。でも、それらは心配したからと言って少しでも良くなることでしょうか?ボブ・ラッセルはこういいます。①心配事の40パーセントは実際には起こらない ②30パーセントは今さらどうにもならないこと(過去に関すること)③12パーセントは健康に関しての行き過ぎた心配 ④10パーセントは、悩んでないで行動を起こせばすぐ解決しそうな些細なこと ⑤本当に心配するに足るものは僅か8パーセントである。 

漠然とした心配のことを「思い煩い」といいます。こんな例えがあります。「近所に鶏を飼っている人がいました。夜中に雄鶏が大声で鳴くので、太郎さんはぐっすり眠ることができません。太郎さんが苦情を言うと、飼い主はこう言いました。『文句を言うなよ。一晩にたった三、四回鳴くだけじゃないか』。でも太郎さんも反論します。『そうかもしれない、でもいつ鳴くかと思うと不安で仕方ないんだ』」。もちろん夜中の騒音は問題です。しかしこの話しは、私たちの不安の性質をよく表しています。それは大きく二つの要素から成っています。①過去にこういうことがあった ②またそうなるかもしれない。そうして実際に起こってもいないことを、予測して心配しているのです。更にひどくなると、いつも最悪の結果を予測して、不安から何もしなかったり、やり過ぎたりして、本当に最悪の結果を招き、「ほらやっぱり」とますます深みにはまっていくのです。そうなると不安神経症といい、なかなかその思考回路から這い出ることはできません。 

聖書の原則は、過去のことでも、明日のことでもなく、「今を生きろ」です。イエス様は「明日のことは明日が心配します」と言われました。裏を返せば「その日その日を、神の国とその義とを第一にして、精一杯に生きなさい。そのことの方が『何を食べるか、着るか』と自分のことばかりを心配して不安になるより、はるかに大事なことだ」ということです。そういう意味で「労苦は、その日その日に十分ある」のです(マタイ6:34)。祝福というのは、思い煩って、手に入るものではありません。どんなに小さなことでも、神様を愛し、心をこめて行う。何度失敗しても、また今日から、神様を信頼して、勇気を持って始める。その先に祝福が待っているのです。聖書にはこうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」。そうして、どんな結果が待っていても、感謝をもって受け入れ、また「今日」から始めるのです。 

どうしたら心配から解放されるのでしょうか?まずは不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩っている人は、結局、神の言葉を拒否し、自分しか信じていないのです。「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる?そんなバカな!私はまだ自分の力で頑張るから放っておいてくれ」「キリストの平安?そんなものでメシは食えんよ。頼りになるのは自分だけさ」。そうして何でも自分でコントロールできるし、しようとしているのです。はっきり言いますが、それは自分を神とする「罪」です。いつか破綻します。クリスチャンの生き方はその正反対です。思い煩うのをやめなさい。心配したからといって、明日をコントロールすることはできないのだから。明日のことは神様にゆだねて、今日を精いっぱい生きなさい!それが神様のメッセージです。

あなたの心配事は何ですか?神様を信頼して、新しい人生を生きてみませんか?ただ単に洗礼を受けることではありません、神様を信頼する、信仰の世界に飛び込もうと言っているのです。



だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。 
労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6章33-34節




その7 「良心」 ローマ2章、ヘブル9章

前回私たちは神様に対する「反発」についてこう学びました。「しかしあくまで自分でやってみないと納得できない、どうして嫌だというなら、神様はあえてあなたをそのままにされることがあります。その先には神様の懲らしめが待っています。それは、あなたが、罪の悲惨と、神様の愛がどれほど深いかを身をもって知り、より愛する者となって、帰ってくるためです。その時、私たちは気づくことでしょう。自分の受けた懲らしめなんて本当に僅かなもので、その何倍もの懲らしめを、イエス様が十字架の上で受けて下さったことを」。今日のテーマは「良心」です。

そもそも「良心」とは何でしょうか?そのことを考えるときに、本当に不思議な気がします。世界には色々な民族がいます。でも良心となると、全世界にある程度、共通の価値観が見いだせるのです。合理的に生きて、弱肉強食を正当化するなら、愛など邪魔なはずなのに、人間は愛なしには生きられません。それは私たちが「愛である神様(Ⅰヨハネ4:16)」に創られた、特別な「霊的な存在(神のかたち)」だからです(創世記2:7、マラキ2:15)。だから聖書を一度も読んだことがなくて、神様のことを全然知らない人でも、心の奥底では正しいことや、愛のあることを慕い求めているのです。聖書にもこうあります。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが(生まれながらにして)彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています(ロマ2:15)」。

しかしその良心は、長い年月の間に随分ゆがんでしまいました。コンピューターでも、使えば使うほど余分なデータが蓄積したり、プログラムにエラーが生じたりして、正常に機能しなくなります。私たちの心もある意味似ています。人類は長い時代を経て、また個人においても経験を積めば積むほど、神様の喜ばれない情報をいっぱい見聞きし、罪というエラーが心を汚染し、知らないうちに良心が正常に機能しなくなっているのです。いったいどのような症状が現れるのでしょう。

良心が誤作動し、過敏に反応してしまうのです。聖書には「弱い良心」という言葉が登場します(Ⅰコリ8:7)。偶像礼拝は聖書においてはっきり禁じられています。しかし偶像に捧げられた肉を食べることは特に禁じられていません。でもそれを食べることによって良心が傷つき、罪悪感を覚えてしまう人がいる。そのように敏感を通り越し「過敏になってしまった良心」のことです。こういう人は必要以上にたくさんの律法(宗教的なルール)を設け、自分も他人もがんじがらめにしてしまう傾向があります。そして信仰がかえってその人を苦しめてしまう矛盾が起こるのです。

反対に、良心が鈍感になり過ぎるのも問題です。聖書に登場する重い皮膚病は忌み嫌われていました。それは神経が麻痺し、小さな傷から腐敗が広がり、やがて死んでしまう様子が、罪とよく似ていたからです(イエス様は彼らを愛し、触り、癒されましたが)。良心も無視し続けると、だんだん鈍感になっていきます。多くの人は理論武装をし、良心の声を必死でブロックします。「みんなもやっているさ」「たいしたことないさ」。でも、そうしていると、良心が麻痺し、やがて霊的に死んでしまうのです。「罪からくる報酬は死(神様との関係の破綻)です(ローマ6:23)」。

どうしたら健全な良心を持ち続けることができるのでしょうか?聖書にはこうあります。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。まずはイエス様を心にお迎えすることです。そして自分で自分をコントロールしようとすることも止めて、この方にすべてをゆだねることです。すると聖霊が、あなたの心を内側からきよめ、時間をかけて癒してくださいます。また御言葉をバランスよく読み続けることも大切です。この際も、決して自分で自分を救おうとしないでください。牧場に憩う羊のようにゆっくり御言葉を味わうのです。「あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心にたくわえました(詩篇119:11)」。こうしてエラーが積み重なった私たちの心は新しくされていくのです。

あなたの良心は正常に機能していますか。一切の言い訳を捨て、神様の前に静まる時間をつくりましょう。目を閉じて神様に思いを集中しましょう。感じませんか「イエス様のささやき」が。



まして、キリストが傷のないご自身を、
とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、
どんなにか私たちの良心をきよめて
死んだ行いから離れさせ、
生ける神に仕える者とすることでしょう。
(ヘブル9章14節)




2012年7月26日木曜日

その6 「反発」 ルカ15章、ヘブル12章

前回は「誘惑」について学びました。その基本的な対処は「逃げる(身を避ける)」ことです。しかも徹底的にかつ迅速に。でも、逃げても追いかけてくるような、しつこい誘惑とは、戦わなくてはいけません。どのように戦うのか?それは祈りによってです。しかも二人でも三人でも、ともに祈ることは、私たちの力となります。そんな事を学びました。今日のテーマは「反発」です。

権威アレルギーという言葉があります。何でも上に立つ権威に反発し、かみつこうとするのです。ボブラッセルは、今日の社会全体がそのような特徴を持っていると言います。「家庭で親の声はもう権威を持ちません。教室でも先生の声は権威を持たず。街角の警察官に対する敬意も、近所のお年寄りに対する敬意も見られないのです(P112 )」。以前、牧会カウンセリングの授業で、こんな話を聞いたことがあります。「権威アレルギーの背後には、父性アレルギーがあります。幼い時に、健全な親の愛情、特に父親の愛情を受けられなかった人は、大人になってから上に立つ権威と向き合うのが苦手です。気に入られようと、極端に隷属(れいぞく)的になったり、逆に愛されていないと感じると、急に反抗的になったり…。しばしば教会では牧師との関係に難しさを感じます」。でもこう学んだこともあります。「親に愛されるだけでは十分ではありません。幼児的な万能感(全能感)の芽は、適切に叱られることによって、摘みとられなくてはいけません。そうしないとやはり権威に従えない大人になります」。つまり愛情もしつけも両方大切なのです。 

神様に対する反発の根本には「罪」の問題があります。聖書にはこうあります。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです(ローマ8:7)」。そもそもアダムとエバが犯した罪は「自分たちも神のようになれる」し、そっちの方が自由で輝く未来が待っていると考えるところから始まりました(創世記3章)。放蕩息子も同じです。彼は愛情不足ではありませんでした。十分な愛情を受けながら「父といることに窮屈を感じ」「父なしでの生活に魅力を感じた」のです。人には、このように生まれながらにして「神様に反抗する心」が植わっているのです。それを人間の原罪(げんざい)と言います。 

そのような反発に対して、時には「懲らしめ」が与えられます。聖書にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル12:11)」。ボブはもう少し分かりやすくこう書いています。「反抗が懲らしめを招くことは避けられません。なぜなら神は私たちを愛しておられるからです。愛に満ちた父親だったら、言うことを聞かないで危険な道路へ歩いて行ってしまう子どもを叱ることもあるでしょう。父親にしてみれば、息子が少しの痛みを経験することで、もっとひどい痛み(死かもしれません!)を避けてほしいのです(129)」。放蕩息子にも懲らしめが与えられました。それは父が直接に与えたものではありませんが「飢饉」「破産」「孤独」「空腹」という神様からの試練でした。その試練のおかげで、彼は、我に返って、「お父さん(神様)の所に帰ろう」と思ったのです。懲らしめ(試練)は、まさにそのためなのです。 

神様だって、懲らしめなんて与えたくありません。しかしあくまで自分でやってみないと納得できない、どうしてもこのままでは嫌だというなら、神様はあえてあなたをそのままにされることがあります。それはあなたが、罪の悲惨と、神様の愛がどれほど深いかを身をもって知り、より愛する者となって、帰ってくるためです。その時、私たちは気づくことでしょう。自分の受けた懲らしめなんて本当に僅かなもので、その何倍もの懲らしめを、イエス様が十字架の上で受けて下さったことを…。聖書にはこうあります。「しかし彼(イエス様)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(イザヤ53:5)」。この十字架の愛に気付き、心砕かれて、神様に立ち返り、喜びと感謝をもって生きる者とされる、それが本当の意味での回心なのです。 

神様の願いはただ一つ、あなたと一緒に人生を歩むこと。それが神様の喜びであるし、あなたにも喜んで欲しいのです。一緒に生きるだけでは十分ではありません。喜んで欲しいのです! 



私たちもみな、
かつては不従順の子らの中にあって、
生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。

エペソ2章3-4、6節(要約)




2012年7月19日木曜日

その5 「誘惑」 マタイ4章、エペソ6章

前回は「お金」について学びました。地上に富を蓄えるのでも、貧しくても良いと開き直るのでもなく、「与える」ことによって天に宝を積むのがクリスチャンの生き方でした。主の祈りには「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください(マタイ6:11)」とあります。「私たちの」です。自分の必要だけではなく、周りの人々も含め、すべての人々が、糧を与えられることが大切なのです。どうしても働けない人や、災害で苦しんでいる人々もいるでしょう。彼らのためにも働き、分け合う精神が大切です。お金もその一つの要因となりますが、今日のテーマは「誘惑」です。

実はイエス様もサタンの誘惑を受けられました。イエス様は洗礼を受けた直後「悪魔の試みを受けるため(マタイ4:1)」荒野に退かれました。40日40夜の断食を終えた空腹の絶頂にて、三つの試みを受けられました。①「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」②「あなたが神の子なら(神殿の頂から)下に身を投げてみなさい」③「もしひれ伏して私(悪魔)を拝むなら、これら全部(全世界)をあなたに差し上げましょう」。これらの誘惑の、特に①と②は、私たちにとっての誘惑とはなりえません。やろうと思えば出来ることを、禁止されるからこそ、誘惑が生まれるのです。しかし私たちには、石をパンに変えることも、神殿の頂から飛び降りることもできません。でもこの三つの誘惑は、私たちが日常に感じている誘惑とも関係しています。 

いったいどういうことでしょうか?例えば悪魔のイエス様に対する「この石がパンになるように命じなさい」との誘惑は、肉に対する誘惑です。悪魔はイエス様の空腹を利用して、自分に従わせようとしました。私たちの肉欲も「すぐにくれ、もっとくれ、それさえあれば満たされる」と、私たちをだまし悩ませます。性欲、金銭欲、食欲などがその類(たぐい)ですが、そこから得られる満足は、実際は一時的です。そんなもので悪魔と取引してはいけません。また「神殿の頂から下に」の誘惑は、名誉欲に対する誘惑です。もしイエス様が、人が集まるエルサレムの神殿の頂から飛び降り、天使がそれを救ったら、たちまち評判になり、人気者となり、崇められたことでしょう。しかしそのように、自分のために神の力を使うことは、神様のみこころではありませんでした。私たちも(レベルは違うけれど)同じような誘惑にあうことがあります。神様に認められるよりも、人に認められたい。神様に喜ばれるより、人に喜ばれ、人気者になりたい、注目を集めたい。しかし、そういった肉欲や名誉欲に従うことは、ただ自分の弱さに負けているのでなく、私たちを餌で釣ろうとしている悪魔に負け、悪魔の前にひれ伏すのと同じことなのです。 

あなたの弱点(ウィークポイント)は何ですか?ある説教者が言いました。「悪魔は私たち一人一人が食いつく餌が何か正確に知っています。地球上の誰よりも長く人間の心を釣り上げていますから。私たちがすぐに食いつくような餌を知っていて、じっくり時間をかけて私たちに食いつかせようとしているのです(P104)」。おいしそうな餌を目で追いかけながら、誘惑に打ち勝つことはできません。その餌に対処する、もっとも簡単で、賢明な方法は、その餌からなるべく遠くに逃げることです。そしてもう二度と近づかないことです。それが人であれば、携帯の連絡先も消してしまうことです。ひとりでできないなら、信頼できる人にも告白し、手伝ってもらいましょう。 

しかし、逃げても追いかけてくるような、しつこい誘惑とは、戦わなくてはいけません。それは単なる意志の強さの問題ではなく、霊的な戦いです。聖書にはこうあります「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい(エペソ6:11)」。その武具の中でも、もっとも大切なのは「御言葉の剣(17)」と「御霊による祈り(18)」です。イエス様は、荒野に退き、ただ断食していたのではありません。40日40夜、祈っていたのです。また悪魔の誘惑に対し、すべて御言葉をもって答えられ、勝利されました。更に二人でも三人でも、ともに集まって祈ればさらによいでしょう。ともに集まり、互いのために祈ることは、力となります 

誘惑に合わない人はいません。それは救われてからも同じです。でも誘惑に従わない自由がある、それがキリスト者の自由。完成は御国にて。地上では恵みの中をゆっくり成長させられていきます。 たとえ失敗しても、自暴自棄にならず、キリストと主にある兄弟姉妹ともに一歩一歩。



誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。
マタイ26章41節

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
ヘブル10章25節





2012年7月12日木曜日

その4 「お金」 マタイ6章

前回、私たちはナオミの生涯から「孤独」について学びました。彼女には、自分をあわれむ十分な理由がありました。夫の死、二人の息子の死、異国での生活、そして老い…。でも彼女は、自己憐憫に陥いることなく、「二人の嫁の幸せ」を心から願い、利用せず、優しい言葉をかけました。そんなナオミの姿から、孤独な時こそ「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」というイエス様の教えの上に立つことの大切さを教えられました。本日は「お金」ついてです。

「繁栄の神学」というキリスト教的御利益信仰があります。簡単に説明すると「神様の御心は、私たちが繁栄することである」という教えです。罪を離れ、よく献金をし、よく奉仕をするなら、神様は必ず私たちを祝福してくださるという教えです。とても分かりやすく、私たちを惹きつけます。事実この福音は、アフリカやラテンアメリカで爆発的に広がりました。でも本当にそれでよいのでしょうか?全てが間違い、というわけではありません。確かに、祈りの結果として、祝福と繁栄をこの世で受け取る人もいるでしょう。しかしそうでない場合もあります。そもそもイエス様はお金持ちでしたか?いいえイエス様には「枕するところさえありません(マタイ8:20)」でした。そして十字架につけられ、殺されたのです。パウロはどうでしたか?「私の労苦は彼らよりも多く、…労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11:23,27)」と言っています。こうして見てみると、私たちの信仰は、むしろ「天に宝を積む信仰(マタイ6:20)」ではないでしょうか。 

アメリカのテレビ伝道者のことが紹介されていました。彼は繁栄の神学を主張しこう言いました。「新しい車が欲しいとお祈りする時は、必ず何色の車がいいかまで神に申し上げましょう。願った通りのモノが手に入るのですから」。そのメッセージは人々を魅了し、彼は大成功し大金持ちになりました。でも贅沢すぎる生活が人々に躓きを与え、彼は大きなスキャンダルを犯して消えていきました。聖書には何度も「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです(Ⅰテモテ6:10)」「金銭を愛する生活をしてはいけません(ヘブル13:5)」と警告されています。また「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい(13:7)」ともあります。彼はまさに反面教師となりました。 

でもだからと言って「貧しさ」が「美徳」かといえば、そうでもありません。日本では、仙人か修行僧のイメージがあるのか、信仰者、特に献身者には「清貧」を求める傾向があります。たしかに「金銭に無欲」であることは大切です(Ⅰテモテ3:3)。しかし聖書には「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬(新共同訳:報酬)を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです(Ⅰテモテ5:17)」とも教えています。献身者だけでなく、すべてのクリスチャンに対しては、このように教えています。「また私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです(Ⅰテモテ4:11-12)」。つまり「貧しくあれ」とうよりは、むしろ「ちゃんと働いて、証しになる生活をしなさい」「働いている人にはちゃんと報酬を与えなさい」と教えられているのです。 

私たちは「富」について、どう祈るべきなのでしょう?一つの祈りを紹介します。「(父なる神様)…貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み『主とはだれだ』と言わないために。また私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために(箴言30:8-9)」。つまり、貧しくもなく、富み過ぎることもなく、必要な糧が与えられるように、との祈りです。でもそれは、自分の必要だけ満たされたら良いというのでではありません。主の祈りには「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください(マタイ6:11)」とあります。「私の」ではなく「私たちの」です。自分の必要だけではなく、周りの人々も含め、すべての人々が、糧を与えられることが大切なのです。どうしても働けない人や、災害で苦しんでいる人々もいるでしょう。彼らのためにも働き、喜んで分け合う精神が大切です。神の国とその義とを第一に求める信仰とは(6:33)、そういう具体的な愛の行動を伴うのです。 

空の鳥を見なさい。思い煩わず、その日その日を精一杯生きています。私たちも、全てを神様にゆだねながら、神と人のとのために、いのちを燃やし、一日一日を精一杯生きたいものです。 



かえって、困っている人に施しをするため、
自分の手をもって正しい仕事をし、
ほねおって働きなさい。
エペソ4章28節





2012年7月4日水曜日

その3 「孤独」 ルツ記1章

前回は「疑い」について学びました。疑いにも、良い疑いと悪い疑いがあるのです。良い疑いとは、「信じたい」と強く願い、神と自分と真剣に向かい合っているがゆえの疑いです。その疑いの中から、信仰を持って一歩を踏み出す時に、私たちは本当の意味で神を体験するのです。

今日は孤独についてですが、あなたはどんな時に孤独を感じますか?一人ぼっちの時、私たちは確かに「孤独」を感じます。でももっと孤独を感じるのは、大勢の人々の中で「自分だけ取り残された」と感じる時ではないでしょうか?私も外国でそのような孤独を感じました。特にドイツでのクリスマス、みんなは家に帰って行くのに、自分ひとりだけ寮に留まり帰るところがなかった時、本当に孤独を感じました。(ドイツでのクリスマスは、日本の正月のように家族が集まる日。町によっては電車も止まってしまいます。)でももっと孤独を感じたのは、正直、気をつかってくれた友人知人の家庭に招かれた時です。厚意で招いてくださった方には本当に申し訳ないのですが、周りが幸せそうにすればするほど、自分も楽しそうにはするものの、なぜか孤独が深まったことを覚えています。イギリスにいた頃、自殺者が最も多いのはクリスマスだと聞いたことがあります。その気持ちも分かるような気がします。孤独は本当に辛いものです。もう二度と味わいたくない。孤独の問題さえ解決したら、人生の問題の大半は解決するのではないでしょうか?

多くの有名人も孤独を感じています。ボブラッセルはこのように書いています。「自分の分野でトップに立った人にとって、多くの場合、孤独はつきものです。キャリアの階段を上れば上るほど、同僚は少なくなり、共感してくれる人も減ってきます。友達も少なくなります。尊敬され、崇拝されるかもしれませんが、特別として扱われるからです。いつも誰かが梯子の最上段から蹴落とそうとしているかもしれないと、他の人を疑ってかかる誘惑に陥ってしまいます。ある人気ロック歌手は、コンサートが終わって日記にこう書きました。『今夜2万5千人を虜にした私は、ひとりきりで家に帰った』。アインシュタインはこう言いました。『世界中の人がわたしのことを知っているというのに、こんなにさみしいなんておかしなことだ』P64」。マザーテレサは言いました。「必要とされていない、愛されていない、気にかけてもらえない、皆から忘れられている…。こんな思いこそが、飢えよりもずっと過酷なこと、…ずっと苦しい飢えだと、私は思うのです。」

ナオミも孤独を感じていました。ルツ記を読む時、私たちは大抵、嫁のルツに注目するのですが、今日はナオミに注目したいと思います。彼女は飢饉(ききん)の時に、夫について、ベツレヘムからモアブの野に移り住みました。慣れない土地で、慣れない言葉と文化と悪戦苦闘しながら子育てをし、ようやく生活も軌道に乗りかけたところで夫に先立たれてしまいました。ふたりの息子たちは、モアブで育ち、モアブ人と結婚しました。そして孫に囲まれた幸せな老後を夢見かけたところで、二人の息子にも先立たれてしまったのです。ナオミは本当に孤独だったのではないでしょうか?当時の未亡人は社会的に本当に弱い立場にありました。人生で積み重ねてきたものが何もなくなってしまいました。でもそんな時、彼女は二人の嫁たちに言いました。「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜り、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」(9)。それを聞いて、二人の嫁は、声をあげて泣きました。

ナオミには孤独に浸るだけの十分すぎる理由がありました。でも彼女はそれを思いやりに変えました。ルツとナオミの麗しい嫁姑の関係が、この後には続きますが、その背後には、こういった普段からの、優しい声かけがあったことを忘れてはいけません。孤独に浸り、自分をひたすらあわれみ、自分の感情に固執し、他人への配慮を失う時…私たちはますます孤独の罠にはまっていきます。しかし、孤独だからこそ、寂しいからこそ、他人への配慮を忘れず、他人の痛みを自分の痛みとし、普段から優しい言葉を忘れないなら、孤独からの脱出の道は自然と開けてくるのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」このイエス様の言葉を忘れてはいけません。

統計によればほとんどの人は孤独を感じているそうです。今は満たされた関係があっても、離別は誰にでもやってくるのです。感じるなと言っても感じてしまうのが孤独。でもインマヌエルの主(イエス・キリスト)を見上げる時、私たちの心に、他人を思いやる余白が生まれるのです。



だれでも、自分の利益を求めないで、
他人の利益を心がけなさい。
Ⅰコリント10:24




2012年6月28日木曜日

その2 「疑い」 士師記6-7章

前回は「恐れ」について学びました。「勇気とは恐れがないことではありません。恐れがあるにもかかわらず、行動を起こすということです。…自分の力ではなく、神の約束を信じて下さい。神の助けによって恐れを克服してください。みことばを心に蓄えて下さい。強く、雄々しくあれ、主なる神はあなたとともにおられます」。シリーズ第2回目の今日は「疑い」についてです。

ご存知ですか?「疑い」にも、良い疑いと、悪い疑いがあるのです。私たちは理性をもっていますから、疑いを感じないということはあり得ません。もしいるなら、最初から信じる価値もないと思っているから、疑いも感じないのでしょう。私たちは、何かに真剣に向き合うなら、そしてそれを信じたいと強く願うなら、自分の中に潜んでいる「疑い」という感情とも向き合わなければなりません。信仰とは、理性を無視して、やみくもに「信じろ」というものではありません。理性もまた神様からの賜物です。神様は決して理性を否定なさいません。有名な哲学者が言いました。「中途半端な信条(口先だけの信仰や知識)よりも、率直な疑いの中に、(真実な)信仰があるのですp47」。率直な疑いは、真実を知りたくて、自分の理性も総動員して、追い求めているから生まれるのです。それは「良い疑い」なのです。ペテロも主を信頼して水の上を歩きましたが疑ってしまいました(マタイ14:31)。また苦しむ息子を前にして、父親はイエス様に言いました。「信じます、不信仰な私をお助け下さい(マルコ9:24)」。彼らはみな、主を求めていました。悪い疑いは、そのような願いも求める心もなく、主(もしくはその存在自体)を侮(あなど)ることです。聖書にはこうあります。「愚か者は心の中で、[  『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない(詩篇14:1)」。良い疑いは、もがきながらも真理に至ります。しかし悪い疑いは何も生み出さないばかりか、人を破滅に導きます。 

小さな神体験の積み重ねが「疑い」を払拭(ふっしょく)します?いきなり信仰の巨人になることはできません。ボブ・ラッセルは面白い例えを用いています。「ある建築業者が(深い渓谷の)対岸にいる人に向かってたこを飛ばしました。向こう側に届いたたこにロープを結ぶと、糸を引いて、たことロープをたぐり寄せます。次にロープにケーブルが結ばれ、そうやって何度もケーブルが渡され、少しずつ丈夫な橋が造られるのですp52」。私たちの信仰も、最初は、たこ糸のように細くて頼りないかもしれません。しかし小さな神体験を繰り返す中で、信仰は徐々に鍛えられ、神様との間に丈夫な「信仰の橋」が架けられていくのです。ギデオンも「わたしがあなたを遣わす」と言われた時、信じられず「自分にはできない」と主を疑いました(6:15)。しかし彼はそこで諦めるのではなく、何度も食らいつくようにしるしを求めました(6:17,37,39)。これは悪いことではありません。彼はなんとか主の期待にこたえたかったのです。私たちも真摯に主に求めるなら、主は答えて下さいます。その際に気をつけることは、劇的なことばかりではなく、日常の小さなことの中に主の御業を見つけ感謝することです。その積み重ねが信仰を育むのです。 

でも最終的には、主のやり方に従わなければなりません。いつまでもしるしばかりを求めたり、御心が示されても従わなかったりしていてはいけません。こんなことをありませんか?「神様、もし○○してくれたら何でもあなたの言うことに聞き従います」と祈っておいて、いざとなると忘れてしまうなんてことが。安易にしるしを求めることは「主を試みる罪」です(マタイ4:7)。ギデオンはしるしを求めましたが、ちゃんとその答えにも従いました。彼はイナゴの大群のようなミデヤン兵と海辺の砂のようなラクダの軍隊に、たった300人の兵で立ち向かったのです!すると神様は不思議な御業を行われ、驚くような大勝利を収めることができました(7章)。私たちが信仰をもって立ち上がる時に、主がともに戦ってくださいます。いや主が先立って、私たちのために戦ってくださるのです。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です(Ⅰヨハネ5:4)」。 

からし種ほどの信仰がありますか?よく「もっと信仰の立派な人に…」という言葉を聞きます。でも立派な信仰なんて誰も持っていません。信仰とは、努力によって生まれるものではなく、ただ恵みによって与えられるものです(エペソ2:8-9)。私たちに出来るのは、ひたすら求め続けることと、従うことです。ギデオン自身は弱い人でした。でも彼はひたすら求めて、従ったのです! 



「もし、からし種ほどの信仰があったら、
 この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。
 どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

マタイ17章20節




2012年6月14日木曜日

その1 「恐れ」 ヨシュア1章

今回から新しいシリーズを始めたいと思います。タイトルは「人生の危機への対処」。参考にしていると書があります。ボブ・ラッセル著「12の危機からあなたを守る聖書のメッセージ」(いのちのことば社)。私たちの人生にはほんとに色々なことが起こります。良い意味でも、悪い意味でも、どんな映画より、皆さんの人生の方がドラマチックで、思いがけないことに満ちています。私たちは、その都度、信仰者として、祈り、叫び求めて、主から解決を得て行くのですが、もっと大切なことは、普段から心の備えをしていくことではないでしょうか?今は当てはまらなくても、いざという時のために、一緒に学んでおきましょう。最初のテーマは「恐れ」です。

あなたはどんな時に「恐れ」を感じますか?人それぞれ、恐れを感じるツボは違っています。代表的なものを4つ上げましょう。①「○○恐怖症」ある特定の事柄に強い拒否反応を示すこと。過去のトラウマか、未知の領域に対する不安か、高所恐怖症とか、恐水症とかがある。また何にでも不安を感じることを不安神経症ともいう。②「コントロールを失うことへの恐れ」完ぺき主義者と呼ばれる人々に多いタイプ。何でも自分の枠(わく)に収め、自分が決めようとし、コントロール(支配)していなければ気が済まない。人間関係や仕事においても、人が自分の予想や計画と違うことを決めたりやったりすると、パニックになり怒り出す。反対に自分が主導権を握れないことには無関心で、むしろ避けたがる。このような人が親になると、子どもの成長や主体性を認められない。③「自分の本性を知られる恐れ」読んで字のごとく、本当の私を知ったら、みんな私のことを嫌いになるに決まっている、という恐れ。クリスチャンになる前の自分を知られることを恐れることもある。④「人を失望させることへの恐れ」例えば、本当は離れなければいけないのに、相手をがっかりさせたくなくて、いつまでもその関係に耐え続けてしまう。相手は、その罪悪感を利用して、あなたをコントロールすることもできる。どうでしょうか?何か当てはまりますか?まずは自分が「恐れてしまうツボ」を知り、認めましょう。それが解決の第一歩です。

ヨシュアもきっと、色々な「恐れ」を感じていたことでしょう?まずヨシュアは、偉大な指導者モーセの後継者でした。モーセは紅海を真っ二つに分け、反抗する民を何度も鎮め、40年にわたって民を導いた偉大な指導者でした。かたやヨシュアには、そのような経験も実績もありませんでした。目の前に広がるのは約束の地カナン。しかも、そこには難攻不落(なんこうふらく)のエリコの町があり。戦いに長けた民が住んでいるのです。「民はついてきてくれるだろうか」「民と主の期待に応えることができるだろうか」きっと色々心配し、プレッシャーを感じていたことでしょう。そんなヨシュアに主は命じられました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである(9)」。また民もこういうのです。「私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。…ただ強く、雄々しくあってください(17,18)」。きっとヨシュアは嬉しかったでしょうね。何よりも彼にとって「わたしがあなたとともにいる」との約束は心強かったことでしょう。 

「恐れ」そのものがいけないのではありません。恐れや不安を感じるから、人は物事に備えることができますし、神に祈ることもできるのです。しかし、その不安をどこに持って行ったらよいのか分からず、重圧に押しつぶされそうになる時、その「恐れ」が破壊的な力を持ち始めるのです。ボブ・ラッセルは言います「神はあなたが恐れることを良しとしておられます。神がともにいてくださるということに信頼し、より頼むようになるためです。勇気とは恐れがないことではありません。恐れがあるにもかかわらず、行動を起こすということです。…自分の力ではなく、神の約束を信じて下さい。神の助けによって恐れを克服してください。(愛と慰めに満ちた)みことばを心に蓄えて下さい。強く、雄々しくあれ、主なる神はあなたとともにおられます(p30)」。 

恐れないあなたになるのではなく、恐れに打ち勝つあなたになってください!そのために必要なのは、御言葉をいつも口ずさみ、心に蓄えること。でもこれだけを強調すると「きょう御言葉を読んでいない…」と反対に不安になってしまうことも。だから一番大切なのは、「どんな時にも」「私たちのことを全部知ったうえで」それでも共にいてくださる主に信頼することなのです。


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41章10節