2012年9月27日木曜日

その9「きつい言葉」ヨハネ15章、ルカ6章

前回は「心配・思い煩い」というテーマで教えられました。私たちは心配したくなくても、心配してしまいます。その心配から解放されるためにはどうしたら良いのでしょう?まず不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩う時、私たちは神の言葉を拒否し、結局自分しか信じていないのです。私たちは神に代わって全てをコントロールできるわけではありません。心配したからと言って、自分の人生を僅かでも伸ばすことはできません。だからクリスチャンは、やるべきことをやったら、明日のことは神様にお任せするのです。それ以上心配してはなりません。「今日を精いっぱい生きよ」その先に主の最善があると信じて。今日のテーマは「きつい言葉」です。 

私たちの周りには「きつい言葉」があふれています。クリスチャンに対しても例外ではありません。「宗教はどれも嫌」「嘘ばっかり書いてある聖書をよく信じるな」「どうせ不寛容な一神教でしょ」。ほとんどは、人から聞いた言葉のオウム返し。世間一般の「偏見」を口にすることで、多数派にいると安心しているのです。メディアにもそのような偏見が溢れています。世界中いたるところでクリスチャンに対する迫害が起きています。その結果、捕らえられ、殺されるクリスチャンも少なくありません。しかしそれらが報道されることはほとんどありません。一方クリスチャンが何かの間違いを犯すと途端に大きく報道され、クリスチャン全体に対する風当たりが強くなることがあります。もちろん罪は罪なのですが、明らかに偏った報道がなされているように思います。 

驚いてはいけません。それはある意味、当然のことなのです。聖書にもこうあります。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも驚いてはいけません(Ⅰヨハネ3:13)」。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです(ヨハネ15:19)」。もちろんクリスチャンが100パーセント正しいわけではありません。「私たちは正しいからこそ批判される」と最初から開き直るのではなく、どんな批判にも謙遜に耳を傾け、悔い改めることは大切です。きっと批判の中にも、気づきを与え、成長させてくれる「何か」があるはずです。でも実際にクリスチャンだというだけで、嫌われたり、批判されたり、好奇の目にさらされたりすることもあるのです。そんな時私たちはどのように対処したら良いのでしょうか? 

まず感謝しましょう。不正を行い、攻撃される人はたくさんいます。彼らは当然の報いを受けているのです。でも、もし私たちが、信仰をもったゆえに、不当な扱いを受けるなら、その時私たちはキリストと同じ苦しみを味わっているのです。聖書にはこうあります「(試練に会う時)むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(Ⅰペテロ4:13)」。「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」。 

つぎにユーモアのセンスを磨きましょう。何にでもケチをつける意地悪い人はどこにでもいます。悪意のある言葉に対し、同じ土俵で争ってはいけません。こんなエピソードがあります。かつて世界的に有名な伝道者ビリー・グラハムがクイーンメリー号でイギリスからアメリカに渡った時のこと、あるリポーターがこういいました。「イエスはロバに乗ったんですよ。イエスがこんな豪華客船で到着するなんて想像もつきませんね」。この質問に対し、グラハムの友人グラディ・ウィルソンはこう答えました。「大西洋を泳いで渡るロバがいると言うのかい?いたら買うよ」。 

そして相手のために祈りましょう。いくら相手にうまく言い返して黙らせたとしても、相手の心を失ったら何にもなりません。その時私たちは神様の前に敗北者です。事実は理性的に伝えつつも、あとは神様にお任せし、相手のために祈る時、私たちは本当の意味で勝利者とされるのです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい(ルカ6:27)」とイエス様も教えられました。目的は、相手をギャフンと言わせることではありません。相手がイエス様の愛に触れ、本当の意味で変えられることです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです(Ⅰペテロ3:9)」。 

ボールを持つ者はタックルされる!あなたに対する風当たりが強いのは、あなたが今ボール(勝利のカギ)を持っているからかもしれません。屈することなく、ゴールを目指して走りなさい! 



あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。
それはただ悪への道だ。

詩篇37篇5,8節









2012年9月19日水曜日

その8「心配・思い煩い」 マタイ6章、ピリピ4章

前回は「良心」について学びました。「『神のかたち』に創造された私たちの心には、生まれながらにして、神様のみこころが書き記されています。それを『良心』と言いますが、その良心は、間違った情報や罪によって汚染されていて正常な機能を失っています。そのまま放置すれば霊的な死(神様との関係の断絶)に至ってしまいます。しかしイエス様の十字架の血は、私たちの心を洗いきよめます。聖書にこうあります『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。今日のテーマは「心配」です。 

私たちはなぜ心配するのでしょうか?心配の種となりえることは山ほどあります。例えば ①仕事のこと ②健康のこと ③老後のこと ④子供のこと ⑤災害が起きたらどうしよう ⑥戦争になったらどうしよう ⑦伴侶に先立たれたらどうしよう、などなど。でも、それらは心配したからと言って少しでも良くなることでしょうか?ボブ・ラッセルはこういいます。①心配事の40パーセントは実際には起こらない ②30パーセントは今さらどうにもならないこと(過去に関すること)③12パーセントは健康に関しての行き過ぎた心配 ④10パーセントは、悩んでないで行動を起こせばすぐ解決しそうな些細なこと ⑤本当に心配するに足るものは僅か8パーセントである。 

漠然とした心配のことを「思い煩い」といいます。こんな例えがあります。「近所に鶏を飼っている人がいました。夜中に雄鶏が大声で鳴くので、太郎さんはぐっすり眠ることができません。太郎さんが苦情を言うと、飼い主はこう言いました。『文句を言うなよ。一晩にたった三、四回鳴くだけじゃないか』。でも太郎さんも反論します。『そうかもしれない、でもいつ鳴くかと思うと不安で仕方ないんだ』」。もちろん夜中の騒音は問題です。しかしこの話しは、私たちの不安の性質をよく表しています。それは大きく二つの要素から成っています。①過去にこういうことがあった ②またそうなるかもしれない。そうして実際に起こってもいないことを、予測して心配しているのです。更にひどくなると、いつも最悪の結果を予測して、不安から何もしなかったり、やり過ぎたりして、本当に最悪の結果を招き、「ほらやっぱり」とますます深みにはまっていくのです。そうなると不安神経症といい、なかなかその思考回路から這い出ることはできません。 

聖書の原則は、過去のことでも、明日のことでもなく、「今を生きろ」です。イエス様は「明日のことは明日が心配します」と言われました。裏を返せば「その日その日を、神の国とその義とを第一にして、精一杯に生きなさい。そのことの方が『何を食べるか、着るか』と自分のことばかりを心配して不安になるより、はるかに大事なことだ」ということです。そういう意味で「労苦は、その日その日に十分ある」のです(マタイ6:34)。祝福というのは、思い煩って、手に入るものではありません。どんなに小さなことでも、神様を愛し、心をこめて行う。何度失敗しても、また今日から、神様を信頼して、勇気を持って始める。その先に祝福が待っているのです。聖書にはこうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」。そうして、どんな結果が待っていても、感謝をもって受け入れ、また「今日」から始めるのです。 

どうしたら心配から解放されるのでしょうか?まずは不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩っている人は、結局、神の言葉を拒否し、自分しか信じていないのです。「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる?そんなバカな!私はまだ自分の力で頑張るから放っておいてくれ」「キリストの平安?そんなものでメシは食えんよ。頼りになるのは自分だけさ」。そうして何でも自分でコントロールできるし、しようとしているのです。はっきり言いますが、それは自分を神とする「罪」です。いつか破綻します。クリスチャンの生き方はその正反対です。思い煩うのをやめなさい。心配したからといって、明日をコントロールすることはできないのだから。明日のことは神様にゆだねて、今日を精いっぱい生きなさい!それが神様のメッセージです。

あなたの心配事は何ですか?神様を信頼して、新しい人生を生きてみませんか?ただ単に洗礼を受けることではありません、神様を信頼する、信仰の世界に飛び込もうと言っているのです。



だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。 
労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6章33-34節




その7 「良心」 ローマ2章、ヘブル9章

前回私たちは神様に対する「反発」についてこう学びました。「しかしあくまで自分でやってみないと納得できない、どうして嫌だというなら、神様はあえてあなたをそのままにされることがあります。その先には神様の懲らしめが待っています。それは、あなたが、罪の悲惨と、神様の愛がどれほど深いかを身をもって知り、より愛する者となって、帰ってくるためです。その時、私たちは気づくことでしょう。自分の受けた懲らしめなんて本当に僅かなもので、その何倍もの懲らしめを、イエス様が十字架の上で受けて下さったことを」。今日のテーマは「良心」です。

そもそも「良心」とは何でしょうか?そのことを考えるときに、本当に不思議な気がします。世界には色々な民族がいます。でも良心となると、全世界にある程度、共通の価値観が見いだせるのです。合理的に生きて、弱肉強食を正当化するなら、愛など邪魔なはずなのに、人間は愛なしには生きられません。それは私たちが「愛である神様(Ⅰヨハネ4:16)」に創られた、特別な「霊的な存在(神のかたち)」だからです(創世記2:7、マラキ2:15)。だから聖書を一度も読んだことがなくて、神様のことを全然知らない人でも、心の奥底では正しいことや、愛のあることを慕い求めているのです。聖書にもこうあります。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが(生まれながらにして)彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています(ロマ2:15)」。

しかしその良心は、長い年月の間に随分ゆがんでしまいました。コンピューターでも、使えば使うほど余分なデータが蓄積したり、プログラムにエラーが生じたりして、正常に機能しなくなります。私たちの心もある意味似ています。人類は長い時代を経て、また個人においても経験を積めば積むほど、神様の喜ばれない情報をいっぱい見聞きし、罪というエラーが心を汚染し、知らないうちに良心が正常に機能しなくなっているのです。いったいどのような症状が現れるのでしょう。

良心が誤作動し、過敏に反応してしまうのです。聖書には「弱い良心」という言葉が登場します(Ⅰコリ8:7)。偶像礼拝は聖書においてはっきり禁じられています。しかし偶像に捧げられた肉を食べることは特に禁じられていません。でもそれを食べることによって良心が傷つき、罪悪感を覚えてしまう人がいる。そのように敏感を通り越し「過敏になってしまった良心」のことです。こういう人は必要以上にたくさんの律法(宗教的なルール)を設け、自分も他人もがんじがらめにしてしまう傾向があります。そして信仰がかえってその人を苦しめてしまう矛盾が起こるのです。

反対に、良心が鈍感になり過ぎるのも問題です。聖書に登場する重い皮膚病は忌み嫌われていました。それは神経が麻痺し、小さな傷から腐敗が広がり、やがて死んでしまう様子が、罪とよく似ていたからです(イエス様は彼らを愛し、触り、癒されましたが)。良心も無視し続けると、だんだん鈍感になっていきます。多くの人は理論武装をし、良心の声を必死でブロックします。「みんなもやっているさ」「たいしたことないさ」。でも、そうしていると、良心が麻痺し、やがて霊的に死んでしまうのです。「罪からくる報酬は死(神様との関係の破綻)です(ローマ6:23)」。

どうしたら健全な良心を持ち続けることができるのでしょうか?聖書にはこうあります。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。まずはイエス様を心にお迎えすることです。そして自分で自分をコントロールしようとすることも止めて、この方にすべてをゆだねることです。すると聖霊が、あなたの心を内側からきよめ、時間をかけて癒してくださいます。また御言葉をバランスよく読み続けることも大切です。この際も、決して自分で自分を救おうとしないでください。牧場に憩う羊のようにゆっくり御言葉を味わうのです。「あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心にたくわえました(詩篇119:11)」。こうしてエラーが積み重なった私たちの心は新しくされていくのです。

あなたの良心は正常に機能していますか。一切の言い訳を捨て、神様の前に静まる時間をつくりましょう。目を閉じて神様に思いを集中しましょう。感じませんか「イエス様のささやき」が。



まして、キリストが傷のないご自身を、
とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、
どんなにか私たちの良心をきよめて
死んだ行いから離れさせ、
生ける神に仕える者とすることでしょう。
(ヘブル9章14節)