私たちの周りには「きつい言葉」があふれています。クリスチャンに対しても例外ではありません。「宗教はどれも嫌」「嘘ばっかり書いてある聖書をよく信じるな」「どうせ不寛容な一神教でしょ」。ほとんどは、人から聞いた言葉のオウム返し。世間一般の「偏見」を口にすることで、多数派にいると安心しているのです。メディアにもそのような偏見が溢れています。世界中いたるところでクリスチャンに対する迫害が起きています。その結果、捕らえられ、殺されるクリスチャンも少なくありません。しかしそれらが報道されることはほとんどありません。一方クリスチャンが何かの間違いを犯すと途端に大きく報道され、クリスチャン全体に対する風当たりが強くなることがあります。もちろん罪は罪なのですが、明らかに偏った報道がなされているように思います。
驚いてはいけません。それはある意味、当然のことなのです。聖書にもこうあります。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも驚いてはいけません(Ⅰヨハネ3:13)」。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです(ヨハネ15:19)」。もちろんクリスチャンが100パーセント正しいわけではありません。「私たちは正しいからこそ批判される」と最初から開き直るのではなく、どんな批判にも謙遜に耳を傾け、悔い改めることは大切です。きっと批判の中にも、気づきを与え、成長させてくれる「何か」があるはずです。でも実際にクリスチャンだというだけで、嫌われたり、批判されたり、好奇の目にさらされたりすることもあるのです。そんな時私たちはどのように対処したら良いのでしょうか?
まず感謝しましょう。不正を行い、攻撃される人はたくさんいます。彼らは当然の報いを受けているのです。でも、もし私たちが、信仰をもったゆえに、不当な扱いを受けるなら、その時私たちはキリストと同じ苦しみを味わっているのです。聖書にはこうあります「(試練に会う時)むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(Ⅰペテロ4:13)」。「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:29)」。
つぎにユーモアのセンスを磨きましょう。何にでもケチをつける意地悪い人はどこにでもいます。悪意のある言葉に対し、同じ土俵で争ってはいけません。こんなエピソードがあります。かつて世界的に有名な伝道者ビリー・グラハムがクイーンメリー号でイギリスからアメリカに渡った時のこと、あるリポーターがこういいました。「イエスはロバに乗ったんですよ。イエスがこんな豪華客船で到着するなんて想像もつきませんね」。この質問に対し、グラハムの友人グラディ・ウィルソンはこう答えました。「大西洋を泳いで渡るロバがいると言うのかい?いたら買うよ」。
そして相手のために祈りましょう。いくら相手にうまく言い返して黙らせたとしても、相手の心を失ったら何にもなりません。その時私たちは神様の前に敗北者です。事実は理性的に伝えつつも、あとは神様にお任せし、相手のために祈る時、私たちは本当の意味で勝利者とされるのです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい(ルカ6:27)」とイエス様も教えられました。目的は、相手をギャフンと言わせることではありません。相手がイエス様の愛に触れ、本当の意味で変えられることです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです(Ⅰペテロ3:9)」。
ボールを持つ者はタックルされる!あなたに対する風当たりが強いのは、あなたが今ボール(勝利のカギ)を持っているからかもしれません。屈することなく、ゴールを目指して走りなさい!
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。
それはただ悪への道だ。
詩篇37篇5,8節