2012年9月19日水曜日

その8「心配・思い煩い」 マタイ6章、ピリピ4章

前回は「良心」について学びました。「『神のかたち』に創造された私たちの心には、生まれながらにして、神様のみこころが書き記されています。それを『良心』と言いますが、その良心は、間違った情報や罪によって汚染されていて正常な機能を失っています。そのまま放置すれば霊的な死(神様との関係の断絶)に至ってしまいます。しかしイエス様の十字架の血は、私たちの心を洗いきよめます。聖書にこうあります『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブ9:14)」。今日のテーマは「心配」です。 

私たちはなぜ心配するのでしょうか?心配の種となりえることは山ほどあります。例えば ①仕事のこと ②健康のこと ③老後のこと ④子供のこと ⑤災害が起きたらどうしよう ⑥戦争になったらどうしよう ⑦伴侶に先立たれたらどうしよう、などなど。でも、それらは心配したからと言って少しでも良くなることでしょうか?ボブ・ラッセルはこういいます。①心配事の40パーセントは実際には起こらない ②30パーセントは今さらどうにもならないこと(過去に関すること)③12パーセントは健康に関しての行き過ぎた心配 ④10パーセントは、悩んでないで行動を起こせばすぐ解決しそうな些細なこと ⑤本当に心配するに足るものは僅か8パーセントである。 

漠然とした心配のことを「思い煩い」といいます。こんな例えがあります。「近所に鶏を飼っている人がいました。夜中に雄鶏が大声で鳴くので、太郎さんはぐっすり眠ることができません。太郎さんが苦情を言うと、飼い主はこう言いました。『文句を言うなよ。一晩にたった三、四回鳴くだけじゃないか』。でも太郎さんも反論します。『そうかもしれない、でもいつ鳴くかと思うと不安で仕方ないんだ』」。もちろん夜中の騒音は問題です。しかしこの話しは、私たちの不安の性質をよく表しています。それは大きく二つの要素から成っています。①過去にこういうことがあった ②またそうなるかもしれない。そうして実際に起こってもいないことを、予測して心配しているのです。更にひどくなると、いつも最悪の結果を予測して、不安から何もしなかったり、やり過ぎたりして、本当に最悪の結果を招き、「ほらやっぱり」とますます深みにはまっていくのです。そうなると不安神経症といい、なかなかその思考回路から這い出ることはできません。 

聖書の原則は、過去のことでも、明日のことでもなく、「今を生きろ」です。イエス様は「明日のことは明日が心配します」と言われました。裏を返せば「その日その日を、神の国とその義とを第一にして、精一杯に生きなさい。そのことの方が『何を食べるか、着るか』と自分のことばかりを心配して不安になるより、はるかに大事なことだ」ということです。そういう意味で「労苦は、その日その日に十分ある」のです(マタイ6:34)。祝福というのは、思い煩って、手に入るものではありません。どんなに小さなことでも、神様を愛し、心をこめて行う。何度失敗しても、また今日から、神様を信頼して、勇気を持って始める。その先に祝福が待っているのです。聖書にはこうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」。そうして、どんな結果が待っていても、感謝をもって受け入れ、また「今日」から始めるのです。 

どうしたら心配から解放されるのでしょうか?まずは不信仰な考え方を止めなければいけません。思い煩っている人は、結局、神の言葉を拒否し、自分しか信じていないのです。「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる?そんなバカな!私はまだ自分の力で頑張るから放っておいてくれ」「キリストの平安?そんなものでメシは食えんよ。頼りになるのは自分だけさ」。そうして何でも自分でコントロールできるし、しようとしているのです。はっきり言いますが、それは自分を神とする「罪」です。いつか破綻します。クリスチャンの生き方はその正反対です。思い煩うのをやめなさい。心配したからといって、明日をコントロールすることはできないのだから。明日のことは神様にゆだねて、今日を精いっぱい生きなさい!それが神様のメッセージです。

あなたの心配事は何ですか?神様を信頼して、新しい人生を生きてみませんか?ただ単に洗礼を受けることではありません、神様を信頼する、信仰の世界に飛び込もうと言っているのです。



だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。 
労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6章33-34節




0 件のコメント:

コメントを投稿