2012年7月26日木曜日

その6 「反発」 ルカ15章、ヘブル12章

前回は「誘惑」について学びました。その基本的な対処は「逃げる(身を避ける)」ことです。しかも徹底的にかつ迅速に。でも、逃げても追いかけてくるような、しつこい誘惑とは、戦わなくてはいけません。どのように戦うのか?それは祈りによってです。しかも二人でも三人でも、ともに祈ることは、私たちの力となります。そんな事を学びました。今日のテーマは「反発」です。

権威アレルギーという言葉があります。何でも上に立つ権威に反発し、かみつこうとするのです。ボブラッセルは、今日の社会全体がそのような特徴を持っていると言います。「家庭で親の声はもう権威を持ちません。教室でも先生の声は権威を持たず。街角の警察官に対する敬意も、近所のお年寄りに対する敬意も見られないのです(P112 )」。以前、牧会カウンセリングの授業で、こんな話を聞いたことがあります。「権威アレルギーの背後には、父性アレルギーがあります。幼い時に、健全な親の愛情、特に父親の愛情を受けられなかった人は、大人になってから上に立つ権威と向き合うのが苦手です。気に入られようと、極端に隷属(れいぞく)的になったり、逆に愛されていないと感じると、急に反抗的になったり…。しばしば教会では牧師との関係に難しさを感じます」。でもこう学んだこともあります。「親に愛されるだけでは十分ではありません。幼児的な万能感(全能感)の芽は、適切に叱られることによって、摘みとられなくてはいけません。そうしないとやはり権威に従えない大人になります」。つまり愛情もしつけも両方大切なのです。 

神様に対する反発の根本には「罪」の問題があります。聖書にはこうあります。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです(ローマ8:7)」。そもそもアダムとエバが犯した罪は「自分たちも神のようになれる」し、そっちの方が自由で輝く未来が待っていると考えるところから始まりました(創世記3章)。放蕩息子も同じです。彼は愛情不足ではありませんでした。十分な愛情を受けながら「父といることに窮屈を感じ」「父なしでの生活に魅力を感じた」のです。人には、このように生まれながらにして「神様に反抗する心」が植わっているのです。それを人間の原罪(げんざい)と言います。 

そのような反発に対して、時には「懲らしめ」が与えられます。聖書にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル12:11)」。ボブはもう少し分かりやすくこう書いています。「反抗が懲らしめを招くことは避けられません。なぜなら神は私たちを愛しておられるからです。愛に満ちた父親だったら、言うことを聞かないで危険な道路へ歩いて行ってしまう子どもを叱ることもあるでしょう。父親にしてみれば、息子が少しの痛みを経験することで、もっとひどい痛み(死かもしれません!)を避けてほしいのです(129)」。放蕩息子にも懲らしめが与えられました。それは父が直接に与えたものではありませんが「飢饉」「破産」「孤独」「空腹」という神様からの試練でした。その試練のおかげで、彼は、我に返って、「お父さん(神様)の所に帰ろう」と思ったのです。懲らしめ(試練)は、まさにそのためなのです。 

神様だって、懲らしめなんて与えたくありません。しかしあくまで自分でやってみないと納得できない、どうしてもこのままでは嫌だというなら、神様はあえてあなたをそのままにされることがあります。それはあなたが、罪の悲惨と、神様の愛がどれほど深いかを身をもって知り、より愛する者となって、帰ってくるためです。その時、私たちは気づくことでしょう。自分の受けた懲らしめなんて本当に僅かなもので、その何倍もの懲らしめを、イエス様が十字架の上で受けて下さったことを…。聖書にはこうあります。「しかし彼(イエス様)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(イザヤ53:5)」。この十字架の愛に気付き、心砕かれて、神様に立ち返り、喜びと感謝をもって生きる者とされる、それが本当の意味での回心なのです。 

神様の願いはただ一つ、あなたと一緒に人生を歩むこと。それが神様の喜びであるし、あなたにも喜んで欲しいのです。一緒に生きるだけでは十分ではありません。喜んで欲しいのです! 



私たちもみな、
かつては不従順の子らの中にあって、
生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。

エペソ2章3-4、6節(要約)




2012年7月19日木曜日

その5 「誘惑」 マタイ4章、エペソ6章

前回は「お金」について学びました。地上に富を蓄えるのでも、貧しくても良いと開き直るのでもなく、「与える」ことによって天に宝を積むのがクリスチャンの生き方でした。主の祈りには「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください(マタイ6:11)」とあります。「私たちの」です。自分の必要だけではなく、周りの人々も含め、すべての人々が、糧を与えられることが大切なのです。どうしても働けない人や、災害で苦しんでいる人々もいるでしょう。彼らのためにも働き、分け合う精神が大切です。お金もその一つの要因となりますが、今日のテーマは「誘惑」です。

実はイエス様もサタンの誘惑を受けられました。イエス様は洗礼を受けた直後「悪魔の試みを受けるため(マタイ4:1)」荒野に退かれました。40日40夜の断食を終えた空腹の絶頂にて、三つの試みを受けられました。①「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」②「あなたが神の子なら(神殿の頂から)下に身を投げてみなさい」③「もしひれ伏して私(悪魔)を拝むなら、これら全部(全世界)をあなたに差し上げましょう」。これらの誘惑の、特に①と②は、私たちにとっての誘惑とはなりえません。やろうと思えば出来ることを、禁止されるからこそ、誘惑が生まれるのです。しかし私たちには、石をパンに変えることも、神殿の頂から飛び降りることもできません。でもこの三つの誘惑は、私たちが日常に感じている誘惑とも関係しています。 

いったいどういうことでしょうか?例えば悪魔のイエス様に対する「この石がパンになるように命じなさい」との誘惑は、肉に対する誘惑です。悪魔はイエス様の空腹を利用して、自分に従わせようとしました。私たちの肉欲も「すぐにくれ、もっとくれ、それさえあれば満たされる」と、私たちをだまし悩ませます。性欲、金銭欲、食欲などがその類(たぐい)ですが、そこから得られる満足は、実際は一時的です。そんなもので悪魔と取引してはいけません。また「神殿の頂から下に」の誘惑は、名誉欲に対する誘惑です。もしイエス様が、人が集まるエルサレムの神殿の頂から飛び降り、天使がそれを救ったら、たちまち評判になり、人気者となり、崇められたことでしょう。しかしそのように、自分のために神の力を使うことは、神様のみこころではありませんでした。私たちも(レベルは違うけれど)同じような誘惑にあうことがあります。神様に認められるよりも、人に認められたい。神様に喜ばれるより、人に喜ばれ、人気者になりたい、注目を集めたい。しかし、そういった肉欲や名誉欲に従うことは、ただ自分の弱さに負けているのでなく、私たちを餌で釣ろうとしている悪魔に負け、悪魔の前にひれ伏すのと同じことなのです。 

あなたの弱点(ウィークポイント)は何ですか?ある説教者が言いました。「悪魔は私たち一人一人が食いつく餌が何か正確に知っています。地球上の誰よりも長く人間の心を釣り上げていますから。私たちがすぐに食いつくような餌を知っていて、じっくり時間をかけて私たちに食いつかせようとしているのです(P104)」。おいしそうな餌を目で追いかけながら、誘惑に打ち勝つことはできません。その餌に対処する、もっとも簡単で、賢明な方法は、その餌からなるべく遠くに逃げることです。そしてもう二度と近づかないことです。それが人であれば、携帯の連絡先も消してしまうことです。ひとりでできないなら、信頼できる人にも告白し、手伝ってもらいましょう。 

しかし、逃げても追いかけてくるような、しつこい誘惑とは、戦わなくてはいけません。それは単なる意志の強さの問題ではなく、霊的な戦いです。聖書にはこうあります「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい(エペソ6:11)」。その武具の中でも、もっとも大切なのは「御言葉の剣(17)」と「御霊による祈り(18)」です。イエス様は、荒野に退き、ただ断食していたのではありません。40日40夜、祈っていたのです。また悪魔の誘惑に対し、すべて御言葉をもって答えられ、勝利されました。更に二人でも三人でも、ともに集まって祈ればさらによいでしょう。ともに集まり、互いのために祈ることは、力となります 

誘惑に合わない人はいません。それは救われてからも同じです。でも誘惑に従わない自由がある、それがキリスト者の自由。完成は御国にて。地上では恵みの中をゆっくり成長させられていきます。 たとえ失敗しても、自暴自棄にならず、キリストと主にある兄弟姉妹ともに一歩一歩。



誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。
マタイ26章41節

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
ヘブル10章25節





2012年7月12日木曜日

その4 「お金」 マタイ6章

前回、私たちはナオミの生涯から「孤独」について学びました。彼女には、自分をあわれむ十分な理由がありました。夫の死、二人の息子の死、異国での生活、そして老い…。でも彼女は、自己憐憫に陥いることなく、「二人の嫁の幸せ」を心から願い、利用せず、優しい言葉をかけました。そんなナオミの姿から、孤独な時こそ「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」というイエス様の教えの上に立つことの大切さを教えられました。本日は「お金」ついてです。

「繁栄の神学」というキリスト教的御利益信仰があります。簡単に説明すると「神様の御心は、私たちが繁栄することである」という教えです。罪を離れ、よく献金をし、よく奉仕をするなら、神様は必ず私たちを祝福してくださるという教えです。とても分かりやすく、私たちを惹きつけます。事実この福音は、アフリカやラテンアメリカで爆発的に広がりました。でも本当にそれでよいのでしょうか?全てが間違い、というわけではありません。確かに、祈りの結果として、祝福と繁栄をこの世で受け取る人もいるでしょう。しかしそうでない場合もあります。そもそもイエス様はお金持ちでしたか?いいえイエス様には「枕するところさえありません(マタイ8:20)」でした。そして十字架につけられ、殺されたのです。パウロはどうでしたか?「私の労苦は彼らよりも多く、…労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11:23,27)」と言っています。こうして見てみると、私たちの信仰は、むしろ「天に宝を積む信仰(マタイ6:20)」ではないでしょうか。 

アメリカのテレビ伝道者のことが紹介されていました。彼は繁栄の神学を主張しこう言いました。「新しい車が欲しいとお祈りする時は、必ず何色の車がいいかまで神に申し上げましょう。願った通りのモノが手に入るのですから」。そのメッセージは人々を魅了し、彼は大成功し大金持ちになりました。でも贅沢すぎる生活が人々に躓きを与え、彼は大きなスキャンダルを犯して消えていきました。聖書には何度も「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです(Ⅰテモテ6:10)」「金銭を愛する生活をしてはいけません(ヘブル13:5)」と警告されています。また「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい(13:7)」ともあります。彼はまさに反面教師となりました。 

でもだからと言って「貧しさ」が「美徳」かといえば、そうでもありません。日本では、仙人か修行僧のイメージがあるのか、信仰者、特に献身者には「清貧」を求める傾向があります。たしかに「金銭に無欲」であることは大切です(Ⅰテモテ3:3)。しかし聖書には「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬(新共同訳:報酬)を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです(Ⅰテモテ5:17)」とも教えています。献身者だけでなく、すべてのクリスチャンに対しては、このように教えています。「また私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです(Ⅰテモテ4:11-12)」。つまり「貧しくあれ」とうよりは、むしろ「ちゃんと働いて、証しになる生活をしなさい」「働いている人にはちゃんと報酬を与えなさい」と教えられているのです。 

私たちは「富」について、どう祈るべきなのでしょう?一つの祈りを紹介します。「(父なる神様)…貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み『主とはだれだ』と言わないために。また私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために(箴言30:8-9)」。つまり、貧しくもなく、富み過ぎることもなく、必要な糧が与えられるように、との祈りです。でもそれは、自分の必要だけ満たされたら良いというのでではありません。主の祈りには「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください(マタイ6:11)」とあります。「私の」ではなく「私たちの」です。自分の必要だけではなく、周りの人々も含め、すべての人々が、糧を与えられることが大切なのです。どうしても働けない人や、災害で苦しんでいる人々もいるでしょう。彼らのためにも働き、喜んで分け合う精神が大切です。神の国とその義とを第一に求める信仰とは(6:33)、そういう具体的な愛の行動を伴うのです。 

空の鳥を見なさい。思い煩わず、その日その日を精一杯生きています。私たちも、全てを神様にゆだねながら、神と人のとのために、いのちを燃やし、一日一日を精一杯生きたいものです。 



かえって、困っている人に施しをするため、
自分の手をもって正しい仕事をし、
ほねおって働きなさい。
エペソ4章28節





2012年7月4日水曜日

その3 「孤独」 ルツ記1章

前回は「疑い」について学びました。疑いにも、良い疑いと悪い疑いがあるのです。良い疑いとは、「信じたい」と強く願い、神と自分と真剣に向かい合っているがゆえの疑いです。その疑いの中から、信仰を持って一歩を踏み出す時に、私たちは本当の意味で神を体験するのです。

今日は孤独についてですが、あなたはどんな時に孤独を感じますか?一人ぼっちの時、私たちは確かに「孤独」を感じます。でももっと孤独を感じるのは、大勢の人々の中で「自分だけ取り残された」と感じる時ではないでしょうか?私も外国でそのような孤独を感じました。特にドイツでのクリスマス、みんなは家に帰って行くのに、自分ひとりだけ寮に留まり帰るところがなかった時、本当に孤独を感じました。(ドイツでのクリスマスは、日本の正月のように家族が集まる日。町によっては電車も止まってしまいます。)でももっと孤独を感じたのは、正直、気をつかってくれた友人知人の家庭に招かれた時です。厚意で招いてくださった方には本当に申し訳ないのですが、周りが幸せそうにすればするほど、自分も楽しそうにはするものの、なぜか孤独が深まったことを覚えています。イギリスにいた頃、自殺者が最も多いのはクリスマスだと聞いたことがあります。その気持ちも分かるような気がします。孤独は本当に辛いものです。もう二度と味わいたくない。孤独の問題さえ解決したら、人生の問題の大半は解決するのではないでしょうか?

多くの有名人も孤独を感じています。ボブラッセルはこのように書いています。「自分の分野でトップに立った人にとって、多くの場合、孤独はつきものです。キャリアの階段を上れば上るほど、同僚は少なくなり、共感してくれる人も減ってきます。友達も少なくなります。尊敬され、崇拝されるかもしれませんが、特別として扱われるからです。いつも誰かが梯子の最上段から蹴落とそうとしているかもしれないと、他の人を疑ってかかる誘惑に陥ってしまいます。ある人気ロック歌手は、コンサートが終わって日記にこう書きました。『今夜2万5千人を虜にした私は、ひとりきりで家に帰った』。アインシュタインはこう言いました。『世界中の人がわたしのことを知っているというのに、こんなにさみしいなんておかしなことだ』P64」。マザーテレサは言いました。「必要とされていない、愛されていない、気にかけてもらえない、皆から忘れられている…。こんな思いこそが、飢えよりもずっと過酷なこと、…ずっと苦しい飢えだと、私は思うのです。」

ナオミも孤独を感じていました。ルツ記を読む時、私たちは大抵、嫁のルツに注目するのですが、今日はナオミに注目したいと思います。彼女は飢饉(ききん)の時に、夫について、ベツレヘムからモアブの野に移り住みました。慣れない土地で、慣れない言葉と文化と悪戦苦闘しながら子育てをし、ようやく生活も軌道に乗りかけたところで夫に先立たれてしまいました。ふたりの息子たちは、モアブで育ち、モアブ人と結婚しました。そして孫に囲まれた幸せな老後を夢見かけたところで、二人の息子にも先立たれてしまったのです。ナオミは本当に孤独だったのではないでしょうか?当時の未亡人は社会的に本当に弱い立場にありました。人生で積み重ねてきたものが何もなくなってしまいました。でもそんな時、彼女は二人の嫁たちに言いました。「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜り、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」(9)。それを聞いて、二人の嫁は、声をあげて泣きました。

ナオミには孤独に浸るだけの十分すぎる理由がありました。でも彼女はそれを思いやりに変えました。ルツとナオミの麗しい嫁姑の関係が、この後には続きますが、その背後には、こういった普段からの、優しい声かけがあったことを忘れてはいけません。孤独に浸り、自分をひたすらあわれみ、自分の感情に固執し、他人への配慮を失う時…私たちはますます孤独の罠にはまっていきます。しかし、孤独だからこそ、寂しいからこそ、他人への配慮を忘れず、他人の痛みを自分の痛みとし、普段から優しい言葉を忘れないなら、孤独からの脱出の道は自然と開けてくるのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」このイエス様の言葉を忘れてはいけません。

統計によればほとんどの人は孤独を感じているそうです。今は満たされた関係があっても、離別は誰にでもやってくるのです。感じるなと言っても感じてしまうのが孤独。でもインマヌエルの主(イエス・キリスト)を見上げる時、私たちの心に、他人を思いやる余白が生まれるのです。



だれでも、自分の利益を求めないで、
他人の利益を心がけなさい。
Ⅰコリント10:24