実はイエス様もサタンの誘惑を受けられました。イエス様は洗礼を受けた直後「悪魔の試みを受けるため(マタイ4:1)」荒野に退かれました。40日40夜の断食を終えた空腹の絶頂にて、三つの試みを受けられました。①「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」②「あなたが神の子なら(神殿の頂から)下に身を投げてみなさい」③「もしひれ伏して私(悪魔)を拝むなら、これら全部(全世界)をあなたに差し上げましょう」。これらの誘惑の、特に①と②は、私たちにとっての誘惑とはなりえません。やろうと思えば出来ることを、禁止されるからこそ、誘惑が生まれるのです。しかし私たちには、石をパンに変えることも、神殿の頂から飛び降りることもできません。でもこの三つの誘惑は、私たちが日常に感じている誘惑とも関係しています。
いったいどういうことでしょうか?例えば悪魔のイエス様に対する「この石がパンになるように命じなさい」との誘惑は、肉に対する誘惑です。悪魔はイエス様の空腹を利用して、自分に従わせようとしました。私たちの肉欲も「すぐにくれ、もっとくれ、それさえあれば満たされる」と、私たちをだまし悩ませます。性欲、金銭欲、食欲などがその類(たぐい)ですが、そこから得られる満足は、実際は一時的です。そんなもので悪魔と取引してはいけません。また「神殿の頂から下に」の誘惑は、名誉欲に対する誘惑です。もしイエス様が、人が集まるエルサレムの神殿の頂から飛び降り、天使がそれを救ったら、たちまち評判になり、人気者となり、崇められたことでしょう。しかしそのように、自分のために神の力を使うことは、神様のみこころではありませんでした。私たちも(レベルは違うけれど)同じような誘惑にあうことがあります。神様に認められるよりも、人に認められたい。神様に喜ばれるより、人に喜ばれ、人気者になりたい、注目を集めたい。しかし、そういった肉欲や名誉欲に従うことは、ただ自分の弱さに負けているのでなく、私たちを餌で釣ろうとしている悪魔に負け、悪魔の前にひれ伏すのと同じことなのです。
あなたの弱点(ウィークポイント)は何ですか?ある説教者が言いました。「悪魔は私たち一人一人が食いつく餌が何か正確に知っています。地球上の誰よりも長く人間の心を釣り上げていますから。私たちがすぐに食いつくような餌を知っていて、じっくり時間をかけて私たちに食いつかせようとしているのです(P104)」。おいしそうな餌を目で追いかけながら、誘惑に打ち勝つことはできません。その餌に対処する、もっとも簡単で、賢明な方法は、その餌からなるべく遠くに逃げることです。そしてもう二度と近づかないことです。それが人であれば、携帯の連絡先も消してしまうことです。ひとりでできないなら、信頼できる人にも告白し、手伝ってもらいましょう。
しかし、逃げても追いかけてくるような、しつこい誘惑とは、戦わなくてはいけません。それは単なる意志の強さの問題ではなく、霊的な戦いです。聖書にはこうあります「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい(エペソ6:11)」。その武具の中でも、もっとも大切なのは「御言葉の剣(17)」と「御霊による祈り(18)」です。イエス様は、荒野に退き、ただ断食していたのではありません。40日40夜、祈っていたのです。また悪魔の誘惑に対し、すべて御言葉をもって答えられ、勝利されました。更に二人でも三人でも、ともに集まって祈ればさらによいでしょう。ともに集まり、互いのために祈ることは、力となります
誘惑に合わない人はいません。それは救われてからも同じです。でも誘惑に従わない自由がある、それがキリスト者の自由。完成は御国にて。地上では恵みの中をゆっくり成長させられていきます。 たとえ失敗しても、自暴自棄にならず、キリストと主にある兄弟姉妹ともに一歩一歩。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。
マタイ26章41節
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
ヘブル10章25節
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