その苦しみは友人からの心ない言葉です。最初は良かったのです。3人はヨブを慰めようとやってきました。そしてひどく苦しんでいるのを見て、ただ黙って彼と一緒に座っていました。この時、友人の存在はヨブにとって慰めであったでしょう。しかし時を経るにつれて、段々と友人たちは、お説教じみたことを言うようになってきました。最初エリファズが言いました。「罪のない人が災いにあうだろうか?人は自分で撒いた労苦を刈り取っているのだ(4-5章)」。そうして「お前が悪い事をしたから、災いを刈り取っているんだ」と責めたのです。それを聞いてヨブは答えます。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」。友人の「助言」は、的を射ていないばかりか、ヨブの傷に塩をすり込みました。
悲しみの受容にはプロセスがあることを知っていますか?①ショック:まだ何が起きているのか自分でも把握しきれていない状況です。お葬式で、家族が気丈にふるまえるのもこの段階です。②否認:その後こんな気持ちになります。「悪い夢を見ているんじゃないだろうか。今にもあの人がそのドアを開けて入ってくるかもしれない」。③怒り:いよいよ現実だと分かってくると、周りや、自分、時には神様にも怒りがわいて来ます。「何で医者はもっと適切な対処をしてくれなかったのか」「何であの時自分は、あんなことを言ってしまったのか?もっと優しくしてあげたかった。」「何で神様はこんなひどい試練を私に与えるのか」など。④抑うつ:怒りの後に、長い落胆が訪れます。幸せだった時のことを、色々思い出し、ただただ悲しいのです。⑤受容:この悲しみの受容のプロセスは、人により何年間も続きます。少し回復したと思えば、また前の段階に戻ってしまうこともあります。そのように行ったり来たりを繰り返しながら、徐々にその人は「喪失の体験」を受け入れ、乗り越え、普通の生活に戻っていくのです。元の生活には戻れないかもしれません。しかし、過去だけではなく、今を生きることができるようになっていくのです。
クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」。また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」。それなのに、なぜがクリスチャンは、すぐにお説教をしたがるのです。もちろん善意からなのでしょうが、ある時は、悲しみに暮れている人に、真剣に間違いを認めさせようと強く迫るのです。先ほども話したように、悲しみの受容には「プロセス」があるのです。慰めを必要としている人に、どんなに厳しい事を言っても通じませんし、反対に背中を押してほしい人に「そのままでいいんだよ」ばかりを言っていても仕方がないのです。聖書にもこうあります。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある(3:4)。黙っているのに時があり、話をするのに時がある(3:7b)」。
また自分が今、どのプロセスにいるのか、客観的に見てみることも助けになります。試練のただ中にあって、そんな余裕はないことは重々承知。でも自分の状態を正しく知ることは、自分自身を許すことにもつながるのです。「今私は何もする気が起こらない。でも今自分はそういうところを通っているんだな」。「今私は怒っている。神様こんな私をあわれんで下さい。今はそうとしか思えないのです」。そして開き直るのではなく、そのままの自分を、神様に「おゆだねする」のです。そうする時に、聖霊があなたの心を解きほぐし、少しずついやし、笑顔を戻して下さいます。
悲しい時、必要なのは友です。本気で心配してくれて、ともに泣いてくれる友達です。イエス様はそんな友となってくださいました。私たちも、悲しむ者の友となることができますように。
落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。
ヨブ6章14節
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。
…わたしはあなたがたを友と呼びました。
ヨハネ15章15節
喜ぶ者といっしょに喜び、
泣く者といっしょに泣きなさい。
ローマ12章15節
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