2012年10月10日水曜日

番外編「礼拝筋 (Muscle of Worship)」 創世記22章1-14節

「礼拝は、私たちにとって最も価値のある時間です!」願わくは、全ての人にもそう思って欲しいのですが、なかなかそうとも言い切れません。特に、多くの人にとって、礼拝とは、正直なところ「退屈なところ」「義務(信仰的な良心)で仕方なく参加しているところ」なのかもしれません。ジャック・ヘイフォードは、著書「ワーシップ(礼拝)」の中で、平均的なアメリカの教会の現状についてこう表現しています。「ある夏の暑い日、小さな教会で40-50名の人々は、眠気を誘う説教を聞かされていました。正面から数列目に座る老人のいびきは、妻がそっと小突いても止まりません。後ろの方では、若い女性が一生懸命につめの手入れをしたり、枝毛の手入れをしたりしています。ここにいる人々は、説教者の低くて単調な声が響く中、それぞれの活動に没頭し、早くこの退屈な時間が過ぎ去らないかと思っていたのです。彼らはあまりにも長い間、そのような礼拝を捧げていたので、『ワーシップ(礼拝)とはこんなものだ』と思っていました」。 

礼拝が退屈に感じてしまう原因は何でしょうか?プログラムに問題のある場合もあります。メッセージで使われている表現、歌われている賛美が、現代人の慣れ親しんだスタイルとはかけ離れ過ぎているのです。場合によっては、礼拝堂の扉を開けたとたんに「ここは自分のいるべきところではない」と感じさせているのではないでしょうか?長年、教会生活をしたり、クリスチャンホームで生まれ育ったりした人は、むしろそのほうが落ち着くのです。でもそうでない人もいます。私たちは知らず知らずのうちに、本質ではない形の部分で、人を躓かせているのではないでしょうか?「何が時代とともに変えても良い部分で」「何が変えてはいけない本質的な部分なのか」を祈り、聖書と照らし合わせ、吟味しつつ、教会は常に自己改革をしていかなくてはなりません。聖書にもこうあります。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)」。 

でも多くの場合、問題は捧げる人の心にもあります。「礼拝が楽しくない」という時、私たちはどこかで「もっと楽しい話しをしてほしい」「もっと感動させてほしい」と、まるで「観客」として礼拝に参加しているのです。そして「今日のメッセージは良かった」とか「今日の賛美には感動した」と評価を下しているのです。でも礼拝とは本来「あなた自身を神様にささげる行為」なのです。聖書にこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です(ロマ12:1)」。神様はアブラハムに「モリヤの地で山に登れ(創22:2)」と言われました。私たちもそのように礼拝に招かれています。そして「ひとり子イサクをわたしにささげなさい」と言われたように、私たちの最も価値ある存在、時間、思い、そして力のすべてを、神様にささげなさいと言われているのです。それが本当の礼拝です。 

最高の礼拝を捧げるにはトレーニングが必要なことを知っていますか?賛美のトレーニングのことではありません。もちろん技術も大切ですが、ここで言っているのは「心」のトレーニングのことです。私たちの心には「礼拝筋(きん)」があります。普段それを使っていないと、衰えるばかりです。でも鍛えれば鍛えるほど増えていくのです。普段まったくトレーニングしていない人が、いきなりマラソンを完走できますか?いきなり試合で最高のパフォーマンスをすることができますか?無理です!同様に、普段から「礼拝筋」を鍛えていなければ、最高の礼拝を捧げることはできないのです。礼拝筋とは、神様に思いを集中する心の筋肉のことです。普段からデボーションの中で、神様に思いを集中し、心から祈り、注意深く聖書を読むことによって、この筋肉は鍛えられます。その積み重ねがあって、初めて「最高の礼拝」を体験することができるのです。

心からの礼拝を捧げるとき、あなたの人生は祝福で満ち溢れます!イサクをささげたアブラハムは、イサクを失ったでしょうか?いいえ、神様はアブラハムにイサクを返し、更なる祝福で彼の人生を満たされました。あなたも、あなたにとっての最高を、神様にささげて下さい。きっと神様は、何倍もの祝福で、あなたを満たされます。「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)!」



だから、
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)



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