死を現実のこととしてとらえていますか?プロゴルファーのポール・エージンガーが癌に気付いたのは1993年のPGAチャンピオンシップの優勝が決まった時でした。その時の様子をこう記しています。「レントゲン室で、氷みたいに冷たいテーブルの上に寝かされて、緊張のあまり震えていました。恐ろしかったのです。技師が機械を調整している間、私は本物の不安が自分にのしかかってくるのを感じました。癌で死ぬんだ。でももう一つの現実に、もっと強く心を打たれました。実のところ私はどのみち死ぬんだ。癌であれその他の理由であれ。問題はそれがいつになるかということにすぎないんだ」。私の母も癌に侵されていましたが、ある時ふとこう言いました。「心臓の鼓動が聞こえる。トントントン。人間は生まれた時から、いずれ死ぬことが決まっている。この鼓動もやがて止まる。そう考えると、この鼓動は死へのカウントダウンではないか」。この現実は、ある時突然私たちに襲ってきます。死の問題は、全ての人に共通のテーマです。それなのに私たちは、何かが起こるまで、なかなかこの問題に真剣に向き合おうとしないのです。
死への備えができていますか?先に紹介したプロゴルファーは化学療法を受けて回復し、その後も活躍を続けました。しかし彼の人生観は以前とは180度異なっていました。「(今回の経験を通して)真の満足を得るための唯一の方法が分かりました。それはイエス・キリストとの個人的な関係を持つことです。(この方に出会い)私はとてつもなく大きな答えを手に入れました。それは何をする時にでも、神様が私をご自身の子どもとして助けて下さるという約束です。どのようなことが起ころうとも、例え癌が再発しようとも…。神様はこの世を最善の場所にしようとは考えておられません。この世は、最善の場所へ行くために準備する場所なのです」。また私の母は、最後まで信仰を保ち、このキリストの素晴らしさを証ししながら、御国に旅立っていきました。死への備えができている人にとって、肉体の死は一つの通過点に過ぎません。その先には主イエスキリストが自ら備えて下さった、永遠の場所(住まい)が約束されているのです(ヨハネ14:3)。そこには主を賛美する仲間がいます。そして、死も、苦しみも、悲しみもないのです(黙示21:4)。
あなたは「義の栄冠」を受けるような生き方をしていますか?パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が用意されているだけです(Ⅱテモテ4:7-8)」と告白しました。そこに一切の後悔はなく、自分の人生に対する誇りが溢れています。私たちは人生の最後にどのような言葉を残すでしょうか?そこに「やりきった感」はあるでしょうか?イエス様はこのように教えられました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです(マルコ8:34-35)」。これこそ私たちの信仰の原点です。肉体の死よりも大切なのは、私たちが日々、自分に死んでいるかどうかです。自分の欲のためだけでなく、神と隣人を愛し、与えられている「いのち」を使っているかどうかが重要なのです。間違いを犯さなかったかどうかは重要な問いではありません。神様が一番関心を持たれているのは、あなたが何(誰)のために生きてきたのか、なのです!
その日は突然やってきます。平均寿命まで生きられたとしても、あと何年残されていますか?やり残していることはありませんか?どうか胸を張って主の前に出ることができますように。
私にとっては、
生きることはキリスト、
死ぬことも益です。ピリピ1章21節